ハンムラビ法典とは 簡単に。 『ハンムラビ法廷』主要キャスト・相関図をご紹介!

“目には目を”で有名な「ハンムラビ法典碑」の実物大レプリカを発見!文明誕生から東西交易まで「古代オリエント博物館」

ハンムラビ法典とは 簡単に

年表 西暦(年齢) 前1810年(1歳)第5代目国王シン・ムバリトの息子として、古バビロニア王国にて誕生する。 前1792年(18歳)古バビロニア王国の第6代目国王に即位する。 前1784年(26歳)イシン、ラルサの二大国を支配していたリム・シン1世からイシンを奪い、主要都市だったマルグム、ユーフラテス川流域のラピクムを占拠する。 前1764年(46歳)古バビロニア王国にリム・シン1世の領土だったラルサを合併。 南方へと領土を広げていく。 前1759年(51歳)イシン、ラルサを抑えた後、残る強国だったマリを制圧。 前1757年(53歳)メソポタミア全域を統一する。 同時にこの地域一帯がバビロニアと呼ばれるように。 前1757~1750年(53~60歳)ハンムラビ法典によって中央集権国家を築く、大規模な治水工事を行うなど、死の直前まで文明を最盛期へと導く。 ハンムラビ王のメソポタミア統一 古アッシリア王国の支配下にあった古バビロニア王国 紀元前1792年、ハンムラビ王が古バビロニア王国の王に即位した当時、バビロニアは 古アッシリア王国の支配下にあり、それほど力の強い国家ではありませんでした。 古アッシリア王国はバビロニアの他、大国の マリ王国も配下に置いており、メソポタミア北部で随一の権力を誇っていたのです。 大国の支配下にある弱小国家から、どのようにしてバビロニアが独立していったのか。 それは古アッシリア王国の国王シャムシ・アダド1世の死に伴うものでした。 多くの国を支配下に収めていたのは、シャムシ・アダド1世の手腕があってこそのものだったのでしょう。 彼が亡くなると支配下にあった国は次々に独立の意志を示し始め、シャムシ・アダド1世の後継者であるイシュメ・ダガン1世ではどうにも抑えきれない状況に。 そんな情勢に合わせて、マリ王国前王の息子だったジムリ・リムが国王に即位。 彼によってマリが完全に独立した結果、 古アッシリア王国は領土を失い、崩壊してしまいます。 これによりハンムラビ王率いるバビロニアも晴れて 自由の身となるのです。 同盟国マリ王国 共に古アッシリア王国の支配から脱却した マリとバビロニアの関係は非常に良好でした。 古アッシリア王国の崩壊に伴い、そのとき権力を持っていたラルサ、マリに次ぐ大国だった エシュヌンナ王国が、ユーフラテス川中流域に侵攻を試みますが、これを受けたハンムラビ王はマリと同盟を結び対抗したのです。 独立したばかりの両国でしたが、協力することで強国エシュヌンナを退けるのです。 その後イラン高原にあった エラム王国がエシュヌンナの侵攻を呼びかけ、バビロニアとマリがこれに参加。 エシュヌンナは滅亡しますが、このとき奪った領土を巡ってエラム王国からバビロニアが宣戦布告を受けてしまいます。 このときもハンムラビ王はマリに助けを求め、エラム王国との戦いに勝利しました。 事あるごとにバビロニアを助けたマリ王国のジムリ・リム王は、ハンムラビ王の盟友といっても良いでしょう。 敵対国ラルサ王国 北方を占領していたのは古アッシリア王国でしたが、南方を治めていたのは ラルサ王国のリム・シン1世です。 古アッシリア王国が崩壊して以来、リム・シン1世は古バビロニア王国に対して明らかな敵対心を見せていました。 実はエラム王国が侵攻してきたとき、マリと同じく大国だったラルサにも、ハンムラビ王は助けを求めています。 しかしそのときラルサはエラム王国に対抗こそしても、バビロニアの救済ではなく、同時に攻められようとしていたマリを救う形で協力したのです。 そればかりではなく、ラルサ王国は バビロニア領内での略奪行為を繰り返していました。 ここまで敵対心を剥き出しにされては、ハンムラビ王としても侵攻を考えないわけにはいきません。 その後バビロニアの侵攻にあったラルサは動揺し、国内での反乱も相次いだといいます。 これを踏まえると、国内の政治もあまり上手くはいっていなかったのでしょう。 前1764年には、ハンムラビ王は完全に ラルサを制圧します。 攻められる前に攻める…攻撃は最大の防御と考えたのかもしれませんね。 マリ王国を侵攻した理由は謎のまま… ハンムラビ王はラルサに次いで、前1762年より マリの侵攻にも着手。 前1759年に メソポタミアを統一します。 ここで不思議なことがひとつあります。 マリとバビロニアの関係は良好だったのに、何故急に 侵攻することになってしまったのか。 実はマリの国王ジムリ・リムの記録も1762年を境に残されておらず、彼がその後どうなったかは明らかになっていません。 盟友だったジムリ・リムの身に何かが起こったことが、ハンムラビ王がマリを侵攻するきっかけになったのか…それとも、単にハンムラビ王が裏切っただけなのか。 その真意は 未だに謎のままとされています。 ハンムラビ法典は法律というよりも、模範を示す手引書だった ハンムラビ王といえば 「目には目を、歯には歯を」の名言が現代にも受け継がれている、ハンムラビ法典が思い浮かびます。 法典とはいうものの、これは実際のところ法律というよりも、犯罪などの問題が生じた際にどういった対処をするか、模範を示した手引書のようなものでした。 よって「絶対にこうしなければいけない」という、法的な拘束力のあるものではなかったのです。 ハンムラビ王は強制するわけではなく、模範を示す形で国民を導いたということですね。 立場の弱い者に配慮されたその内容は、現代でも参考になる部分が多々あります。 きょうのまとめ 古アッシリア王国支配下の弱小国家という立ち位置から、同盟という形で強国の力を借り、徐々に領土を拡大していったハンムラビ王。 状況に対する判断力、良好な同盟を築く外交力が、彼をメソポタミア統一に導いたといえるでしょう。 そしてハンムラビ法典の内容から察するに、ハンムラビ王は能力だけでなく、人格的にも非常に優れた人物だったはずです。 今回の内容を簡単にまとめると….

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「目には目を」で有名なハンムラビ法典とは?内容や特徴、成り立ちを解説

ハンムラビ法典とは 簡単に

紀元前18世紀中ごろにハムラビ王が制定した、 くさびがた 文字法典。 「目には目を、歯には歯を」の同態復讐 ふくしゅう 法で名高い。 1901~02年に西イランのスーサで発見された石碑(ルーブル美術館蔵)には、神(おそらく太陽と正義の神シャマシュ)から権力の印を受ける王の浮彫りと、楔形文字による法典とが刻まれている。 序文、本文、結びの三部からなる法典の構成は、ウルナンム法典など古い時代の伝統を継承している。 神々を敬う心に篤 あつ い王の人格を強調する序文に続く本文は、「人々に正義を与えるために」編まれた282条の法律を含み、この法律を遵守するよう子孫に諭すのが結びである。 楔形文字法典中もっとも整った内容をもつこの法典は、まず最初に裁判の公正を期す基本線を定め、不正を働く裁判官を厳しく否定したあと、神殿や王宮の所有物に対する窃盗を取り上げる。 ついで条文は、出征中あるいは捕囚の身の兵士の土地の耕作権、小作、借金と債務奴隷制度、婚姻と家族、各種労働者や労働用具の雇用などのテーマに関し、具体例を想定しつつ、判定の基準を示していく。 選ばれたテーマそのものが、土地所有と農業に立脚する当時の社会を反映するが、とりわけ土地を支給されるかわりに賦役義務を負う直接生産者の生活基盤の、したがって彼らに依存する王権の存立基盤の維持・強化こそ制定者の意図と読み取ることができる。 いわゆる同態復讐法もこの法典に特徴的であるが、同一犯罪に対する処罰は被害者の社会的身分(自由人、ムシュケーヌムとよばれる人々、奴隷)により異なり、しかも現実に同態復讐が実行された確証はなく、通常は示談に付されたらしい。 制定時期は王の晩年であるが、判決記録などに照らすと、法典の法律は実地に適用されたものではなく、むしろ慣習法を基に「犯罪」を裁く理念をまとめたものと考えられる。 [五味 亨] 『H・クレンゲル著、江上波夫・五味亨訳『古代バビロニアの歴史』(1980・山川出版社)』 出典 小学館 日本大百科全書 ニッポニカ 日本大百科全書 ニッポニカ について の解説.

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ハンムラビ法典の倍返しが怖い?あらすじと内容を解説!

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ウル・ナンム法典 ハンムラビ法典では国民が守るべき規範を示し、この規範を破ったものを処罰するというルールを明確にしました。 この法律ができたことで、多くの独裁的な支配者が好き勝手できなくなり、法治国家としての基礎を作り上げました。 ただし法律の内容としては非常に残酷でした。 些細な法律違反でさえも死刑と定めており、例えば居酒屋に入った女性や逃亡した奴隷を匿った者などもすべて死刑の対象でした。 また年齢や身分に応じて扱いが変わる法律で、特に親に対して子どもは絶対に逆らうことができなかったとされています。 ハンムラビ法典は誰が作った? ハンムラビ法典はその名の通り、古代バビロニア帝国の初代王であるハンムラビによって作られました。 ここでハンムラビ王の生涯を簡潔にご紹介します。 ハンムラビ王 ハンムラビは紀元前1810年頃、古代バビロンにて誕生しました。 父シン・ムバリトは古代バビロンの王で、紀元前1792年父の死去後、ハンムラビはバビロン第一王朝6代目の王となりました。 当時のバビロンは両隣をイシン、ラルサ、マリといった大国に囲まれており、弱小国としての立ち位置でしたが、北方にあるアッシリアと手を組み、次第に頭角を現していきました。 紀元前1784年頃にはイシンを奪い、ティグリス川を超えてマルグムやユーフラテス川流域にあるラピクムなども占領します。 紀元前1764年にはラルサを併合し、バビロンを拡張していきます。 そして紀元前1759年にマリを制圧、紀元前1757年には手を組んでいたアッシリアも征服し、メソポタミア地方を統一しました。 小国バビロンによって統一されたこの地域のことを「バビロニア」と呼んでいます。 ルーヴル美術館 記念碑は楔形文字で彫られました。 多くの権力者の手を渡って、現在はパリのルーヴル美術館に保管されています。 ハンムラビ法典は何のために作った? ハンムラビ王はハンムラビ法典を作った意図を法典の前文に記しています。 そのとき、アヌムとエンリルは、ハンムラビ、・・・わたしを、国土に正義を顕すために、悪しきもの邪なるもの滅ぼすために、強き者が弱き者を虐げることがないために、のごとく人々の上に輝き出て国土を照らすために、人々の膚(の色つや)を良くするために、召し出された ハンムラビは王権の責務として、社会主義の確立と維持をする必要があり、この実現のためには法による統治が必要だと考えていたのです。 そのためハンムラビ法典を制定し、バビロニア帝国を法治国家として推し進めていきました。 ハンムラビ法典の2つの特徴 同害復讐の原則 もし彼(上層自由人)がほかの人(上層自由人)の骨を折ったならば、彼は彼の骨を折らなければならない(ハンムラビ法典 第197条) もし奴隷がほかの人(上層自由人)の頬を殴ったとき、彼の耳を切り取る ハンムラビ法典 第205条 他者に危害を加えた者は、同じことをされるということを意味しており、これを同害復讐の原則としています。 これは現代では「やられたらやり返す」「復讐して良い」と捉われがちです。 しかしこれはハンムラビ法典の伝えたいことではありません。 この法典には「公平な罰を与える」「過度の復讐を抑止する」という意味が込められているのです。 犯罪や罪に対して明確に罰則を定めることで、過剰な罰則が与えられないようにしています。 さらに事前に罰を決めることで、犯罪への抑止力にも繋がっていると考えられています。 身分区別の規定 もし彼(上層自由人)がほかの人(一般自由人)の目を損なったか、骨を折ったならば、彼は銀1マナ(約500グラム)を支払わなければならない もし彼(上層自由人)がほかの人の奴隷の目を損なったか、骨を折ったならば、彼はその(奴隷の)値段の半額を払わなければならない ハンムラビ法典 第198、199条 ハンムラビ法典には多くのことが明記されていますが、身分区別の規定もしっかりとされています。 当時の社会には上層自由人(アウィールム)、一般自由人(ムシュケーヌム)、奴隷の三つの身分がありました。 与えられる刑罰も身分によって差異があり、特にはっきりと感じるのが奴隷と上層自由人の違いです。 アヌンナキとエンリル 前置き アヌンナキの神々の王で、崇高なる神アンと、天地の主でかつ国土の運命の決定者である神エンリルとは、エア神の長子であるマルドゥク神に、あらゆる人々へ最高の神による権利を与え、バビロンの王をイギギという神々の仲間として偉大な者とみなし、またバビロンを崇高なるその名前で呼んで、四界に傑出させ、その中で天地の如く、その基礎が確立したところの永遠の王国を国王のために固めたる時に、敬虔なる大王であり、神を畏れるハンムラビ即ちこの私を、国土において正義を実現するために・・・ 『古代法の翻訳と解釈』著 佐藤信夫 前置き部分には、ハンムラビ王の叙任およびハンムラビ王がどのようにして神から決定権を預かったのか、バビロニア帝国との関係、ハンムラビ法典を作った理由が述べられています。 本文 第1条:ある者(自由人)が、他人を告訴し、「殺人罪」を着せた(資材にあたる罪で起訴した)が、その罪状が立証されなかった場合において彼を「殺人罪」で告訴したる者は<自分も>その同じ罪で、死刑に処せられなければならない。 『古代法の翻訳と解釈』著 佐藤信夫 282条から成る法令および、バビロニア帝国での日常生活を送る上で必要なインフラ部分(農業や行政、家畜の管理、婚姻、養子縁組など)が述べられています。 後書き マルドゥク神 余は、完全無双な王ハンムラビである。 エンリル神が、余を(保護者として)示し、マルドゥク神が余に牧人(牧師)の権(王権)を与えたところの黒い頭(国民)のために、決して無視を(したり)せず、余の側で(この両神は、私を保護することを)決して投げ出したりはしなかった。 彼等(この両神)に平和の場所を求めたのである。 険しい困難(隘路)を切り拓いて、彼ら(国民)に助け(光明)を選んだものである。 『古代法の翻訳と解釈』著 佐藤信夫 後書き部分には、ハンムラビ王の絶対性を強調した上で、これまでの業績と法典の永続性を述べています。 ハンムラビ法典が発見されたきっかけ ハンムラビ法典は、1901年イラン南西部にある古代国家エラムの都市スーサの遺跡で発見されました。 発見後パリに運ばれ、アッカド語に詳しいV・シェイル神父によってフランス語に訳され、出版されたことで世界中にその名を知らしめました。 スーサ遺跡 興味深い理由として、どうしてバビロニアではなく400kmも離れたスーサの遺跡で発見されたのかということです。 これはバビロニアや地域周辺の歴史を紐解くことで明らかになりました。 スーサで発見された理由として、紀元前12世紀頃にエラムがバビロニアを攻め込み、その際の戦利品としてハンムラビ法典碑を持ち去ったためと考えられています。 完全な形で保存されている貴重な法典碑であり、エラム人が大切に扱ってくれたことを感謝しなくてはなりませんね。 現在はパリのルーヴル美術館が所蔵しています。 ハンムラビ法典に関するおすすめの本・書籍 ハンムラビ法典に関する書籍のイメージ ハンムラビ法典に関する書籍は多く出版されています。 おすすめの本・書籍をご紹介していきます。 ハンムラビ「法典」 リンク バビロニアの歴史を紐解く珠玉の一冊です。 シュメール人の登場から滅亡に至るまでの全体史を明らかにしており、ハンムラビ法典に関する解説もしています。 挿絵や用語の解説も丁寧なため、普段歴史書を読まないという方にもおすすめです。 ハンムラビ法典に関するまとめ ハンムラビ法典について解説してきました。 いかがでしたでしょうか。 ハンムラビ王は、バビロニア帝国を拡大し、メソポタミア地方を統一したという功績だけでなく、内政面に関しても民のことを考え、自分たちの子孫たちにとっても手本となるようにハンムラビ法典を制定しました。 この法典が作られたからこそ、バビロニアの自治は守られ、社会をより安定させることができたのです。 この記事を読んで、ハンムラビ法典に興味を持っていただけますと幸いです。 最後までお読みいただきありがとうございました。

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