クルド 人 問題 と は。 クルド人/クルディスタン

クルド人とは なぜ差別?問題や原因(理由)を調査!【わかりやすく解説】

クルド 人 問題 と は

クルド人の新年祭「ネウロズ」の様子(写真:陶山 勉、第4・第7以外) 紀元前、中東地域に残虐な王が存在し、病気にならないようにクルド人の若者の脳みそを食べていた。 ある日、クルド人の若者がこの無慈悲な王へ反旗を翻す。 王を倒し、城を占拠。 これが、クルド人の新年祭「ネウロズ」の起源とされる話らしい。 新たな年の到来と、「抑圧からの抵抗と自由」をみんなで祝うのだそうだ。 「国家を持たない最大の民族」と言われ、苦難の歴史を持つクルド人にとって、今も「火」は自由の象徴なのだという。 そんな神話のような昔の出来事から2000年以上の時を経て、まさか中東から遠く離れた日本で、ネウロズが大規模に開催されるようになっているとは、当時のクルド人たちも想像していなかっただろう。 蕨市民公園に在日クルド人が集結 2016年3月20日、朝10時。 埼玉県蕨市の蕨市民公園に、色鮮やかな民族衣装を身にまとった在日クルド人が続々と集まってきた。 ネウロズをここで祝うためだ。 主催した日本クルド文化協会によると当日は、延べ1000人のクルド人が日本中から集まったという。 狭量な私としては、彼らが何か問題を起こすのではないかとビクビクしていましたが、比較的有効な態度で日本に溶け込もうとしている姿は好感が持てます。 (この地域はその他の外国人も入ってきており、中には反日的な勢力もいるのが事実です) 問題は、このような方々が一つの集落として集まることによって、経済的・政治的に力を持ち、日本人の不利益につながらないか・・・という問題が内在していることです。 国やコミュニティ同士で利益相反した場合にどのような影響がでてくるのかは不透明なわけですし。 そのような意味も踏まえて、日本においては日本人とそうでない人は「差別」ではなく「区別」する必要があると思っています。 その上で、彼らが本当に「日本人」になった暁には温かく迎えて一緒に日本と言う国を作っていければと思います。

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クルド人

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クルド人男性が「警察官に首を絞められた、差別的だ」として動画がネット上にUPされ、国会議員も交えてデモまで行った事案に関して、警察側の認識が明らかになりました。 追記:クルド人文化協会がデモは不支持である旨の声明を出しました。 有田芳生議員「警察に事実確認しました。 警察庁に映像前後の事実確認を行いました。 — 有田芳生 aritayoshifu 有田芳生議員が「警察に事実確認しました」としてこのようにツイートしています。 警察の言い分としては、ということなのだろうし、本当にそうなのかは我々は知る術はありません。 しかし、国会議員が「事実確認」として提示したことは重いです。 以降はこの事実を前提に書いていきます。 個別事件の情報を出したのは警察側が「当事者」の社会的事案であるため、問題ないでしょう。 そして、もう一つ重大なことが。 メディアは警察側の認識を知ってて隠してたことになりますよね。 クルド人男性は合図不履行・免許不携帯の道交法違反後に逃走を図っていた 有田議員が確認した警察側の主張によれば、クルド人男性は 合図不履行・免許不携帯の道交法違反後に逃走を図っていたことになります。 道路交通法 第五十三条 車両(自転車以外の軽車両を除く。 次項及び第四項において同じ。 )の運転者は、左折し、右折し、転回し、徐行し、停止し、後退し、又は同一方向に進行しながら進路を変えるときは、手、方向指示器又は灯火により 合図をし、かつ、これらの行為が終わるまで当該合図を継続しなければならない。 2 免許を受けた者は、自動車等を運転している場合において、警察官から第六十七条第一項又は第二項の規定による免許証の提示を求められたときは、これを提示しなければならない。 ( 罰則 第一項については第百二十一条第一項第十号、同条第二項 第二項については第百二十条第一項第九号) 国際運転免許証若しくは外国運転免許証も同様です。 道交法違反の運転に対しては、多くは行政罰(違反点数加算と反則金)のみであり、基本的に刑事罰を科すような運用にはなっていません。 (反則者に係る刑事事件) 第百三十条 反則者は、当該反則行為についてその者が第百二十七条第一項又は第二項後段の規定により当該反則行為が属する種別に係る反則金の納付の通告を受け、かつ、第百二十八条第一項に規定する期間が経過した後でなければ、当該反則行為に係る事件について、公訴を提起されず、又は家庭裁判所の審判に付されない。 ただし、次の各号に掲げる場合においては、この限りでない。 省略 しかし、道交法上は、刑事罰の対象としても規定されています。 また、 免許不携帯ということは「無免許運転」の嫌疑も出てくるわけです。 それについても刑事罰が定められています。 今回の渋谷署の警察官は、(彼らの認識としては) 任意捜査として問いかけを始め、その後に被疑者らが逃走を図ったなどの事情があったということです。 それにより、有形力行使の違法性についても判断が相当変わり得るということになります。 「職務質問」とも書いていないメディア ネット上では「職務質問の問題」と言われていますが、 実は毎日新聞と神奈川新聞の記事は「職務質問」であるか否かは書いていません。 弁護士アカウントなども、抽象的な職務質問の話として論じてはいるが、この事案についての具体的検討は避けていました。 それは、動画の前後の状況によっては、具体的な嫌疑が発生していない状況から行う職務質問とは異なり、具体的嫌疑が発生した段階で行われるものと区別されている犯罪捜査の側面があった可能性を否定できないと考えていたからでしょう。 私もそう予想していました。 — Nathan(ねーさん) Nathankirinoha そしてこの話は動画の前の時点でどのような事があったのかが分からないと、警察官の行為の正当性・不当性の判断はできない。 だから色んな弁護士もこの事案に対して言及している者はほとんどおらず、「職務質問」の話として抽象論を指摘するにとどめている。 — Nathan(ねーさん) Nathankirinoha 毎日新聞・神奈川新聞は知ってて隠していた これらの記事では「 男性によると」という記述しかありません。 「警察側」の認識がまったく出てきていません。 取材していない、ということはあり得ません。 私の経験上、メディアは取材はしたが記事化する際に情報を落としてるということが当然のように行われていますから、今回もそういうことでしょう。 そして、他に報道してる媒体はほとんどありません。 日ごろから反権力である朝日新聞ですらこの件を報道していません。 マスコミが報じない、渋谷署前 警官がクルド人に不当な暴行及び逮捕をした疑惑に関するデモ および、その現場 — bakusan ANAインターコンチネンタルホテルを応援します bakusandesu この事案を問題視する者も「マスコミが報じない」と言っていますが、要するにストーリーに無理があると考えているのでしょう。 見逃しは「逆差別」か、警察にやましいことがあったのか 免許不携帯を見逃してもらった「逆差別」に似た事ならワイも経験ある。 アメリカで日本人同僚が運転しててた車に同乗しててスピード違反で捕まった時に国際免許証出したら、警官が処理の仕方が分からないので面倒くさかったのか、注意だけで許してくれた。 しかし、今回は「指導警告」とあることからはそのような事情が読み取れません。 見逃しをした、という事になるかと思われます。 これは「逆差別」でしょうか? もしくは、処理が面倒だったというだけなのでしょうか? それとも、警察側の行為にも多少の行き過ぎがあった感が否めないため、相殺的にお咎めなしにした、ということなのでしょうか? いずれにしても、警察側の主張が出てこないままデモを無条件に称賛していた人たちは、はしごを外された形となりましたが。 以上 Nathannate.

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「一般社団法人日本クルド文化協会」が渋谷署の警官による暴行への抗議デモに不支持を表明→自称保守界隈の集団が母体でした

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イラン人がクルディスタンと言う場合• イラク人がクルディスタンと言う場合• クルド人達の言語と人口 クルド人の言語 「 クルド語」は、ペルシア語やパシュトー語 ( が話す言葉)と同じ、西イラン語群に属する言語で、多くのクルド人によって使われます。 一方で、クルド人はクルド語以外に現地の言葉 (例:トルコ語やアルメニア語など)も話すことがほとんどです。 そして、国境をまたいで住み、また調査基準も異なるといった理由から、 統計によってその推定人口規模は大きく変わってくるため、クルディスタン以外の国に住むクルド人のディアスポラ(離散民)達も加えると、その人口規模はおよそ 2500万〜4500万人と範囲がとても広く、正確な数字と言うのは良く分かっていません。 ちなみに、人口規模が大きいクルド人グループのトップ5を挙げると、以下の通りです。 トルコ: 1430〜2000万• イラン: 820〜1200万• イラク: 560〜850万• シリア: 200〜360万• その他ディアスポラ: 200万• ドイツの約80万が筆頭 クルド人の伝統的な生活様式 クルド人の伝統的な生活様式は 遊牧。 メソポタミア平原、そして、トルコやイランの山岳地帯各地を、ヒツジやヤギを連れて移動する生活を基本としており、必要に応じて最低限の農業を営んでいました。 しかし、 この移動を伴う遊牧生活は、 第一次世界大戦 (1914年~1918年)後に国境が設定されたことによって、困難になってしまいます。 その結果、多くのクルド人は伝統的な遊牧生活をやめ、村に定住して農業を営んだり、それまでの彼らの生活には無かった仕事に就く道を選ばざるを得なくなりました。 紀元前401年、現在のイラクのザーホー近郊で1万人の敵と戦った「 カルドゥチョイ族」 とは、クルド人のことではないかと考えられています。 ただし、メソポタミアの記録にしろ、アナバシスに記された記録にしろ、それが実際にクルド人を指しているかどうかについて確実なことは分かっていません。。 「クルド人」という名称が使われ始めたのは7世紀頃から 「クルド人」という名称が使われ始めたのは 7世紀頃。 この地域にイスラム教が入り込み、彼らの多くがイスラム教へ改宗した頃のことです。 そのため、 現在でもクルド人の大半はイスラム教徒であり、中でも イスラム教の最大宗派であるスンニ派に属する人が多数を占めています (但し、他の宗派や他の宗教を信仰する者も存在する)。 また、クルド人は軍人としての戦闘能力が高かったこともあり、歴史の中で多くの国の軍隊から傭兵として必要とされてきました。 例えば、十字軍との戦いで功績をあげたことで西欧諸国においても名が知られている サラディン (1137または1138〜1193年)はクルド人であり、彼らの戦闘能力の高さを象徴する存在です。 (サラディン) 一方で、クルド人はクルド人が住む地域 「クルディスタン」に長期間に渡って居住してきたにも関われず、それまでに 国家を持つことはありませんでした。 そして、「クルディスタン」は、西アジアから北アフリカまでの地域を支配して台頭してきた (1299年〜1922年)によって、領土の一部として組み込まれることになったのです。 第一次世界大戦後に「各国」へ分断されたクルド人コミュニティ 第一次世界大戦でオスマン帝国が破れると、 オスマン帝国が所有していた領土は、戦勝国側によって恣意的な国境線が描かれて 異なる国に分断されてしまいます。 それ以降、一時はクルディスタン王国 (1922年〜1924年)が作られたり、政治的な理由からソ連によってクルディスタン共和国 (1946年〜1946年)が樹立したりしましたが、 クルド人達は、自らが多数派となる国を持てず、また、コミュニティは分断されたままとなってしまったのです。 クルド人が持つ独立の夢 この状況は各国にあるクルド人コミュニティの中から起こった、「 分離独立」を求める運動や活動につながり、現在まで続いています。 ちなみに、この分離独立の裏にあるクルド人の民族主義またはナショナリズムの高まりは、他の要因も影響していると考えられます。 その要因とは例えば、• 1978年にはクルド労働党(PKK)が発足• アブドゥッラー・オジャランが「クルディスタン」の独立を目的として、マルクス主義組織であるクルド労働党(PKK)を結成• アナトリア半島東部が勢力の活動の中心となり、反政府のゲリラ活動を展開し、頻繁にテロ攻撃を行っていくこととなった• 1980年代から1990年代の事実上の内戦状態• PKKによる攻撃、それに対するトルコ政府による軍事制裁により、トルコ北部はこの期間、事実上の内戦状態にあった• 1999年にオジャランが拘束され、PKKの活動も一時は下火となる• 2004年に再びクルド人勢力によるゲリラ活動が再開される といった出来事が起きているのです。 ちなみに、欧州連合(EU)への加盟を目指していたトルコ政府は、EUからの圧力に屈する形で、2002年、 クルド語による公共放送そして教育を承認していますが、根本的な解決には至っていません。 イランで生活するクルド人 イランでは、同化政策を推し進める政府からの圧力に直面すると同時に、イスラム教スンニ派が多数を占めるクルド人達は、国の大多数を占めるシーア派によって、宗教的な迫害とも向き合う生活を強いられていると言えるでしょう。 ちなみに、第二次世界大戦直後、ソビエト連邦の支援の下でクルド人は、「 クルディスタン共和国(マハバード共和国)」と呼ばれるクルド人国家を1946年1月、 イラン北西部に樹立させています。 しかし、1946年4月にはソ連軍がこの地域から撤退することが決定。 実際に撤退した後、 同年12月にイラン政府が政府軍を投入した結果、このクルディスタン共和国は崩壊しています。 ただし、時を同じくして イラン・クルド民主党(KDPI)が設立され、以降は断続的にイラン政府に対する小規模の戦闘攻撃を展開されています。 イラクで生活するクルド人 一方、 イラクではクルド語やクルド文化が認められ、イランに比べれば、クルド人に対する同化政策的なプレッシャーは比較的少なかったものの、 政府による弾圧は最も残忍であったと言えるでしょう。 イラクでは1931年から1932年、そして1944年から1945年にかけて、クルド人系武装勢力による反乱が起きました。 事態は政府によって短期間で封じ込められましたが、クルディスタン共和国で軍を率いた「 ムスタファ・バルザーニー」の指揮のもと、武装勢力による小規模な反政府活動は1960年代まで続き、1975年、クルド人達とイラク政府との和解が試みられたものの失敗に終わり、新たな戦闘が勃発ました。 一方で、 1970年にはイラクの最大政党「 バアス党」と、バルザーニー率いる クルディスタン民主党の間で協定が結ばれ、 クルド人自治区が設置されています。 サダム・フセインの台頭によってクルド人の状況が悪化する 1979年、バアス党の党首にが就いて同国の大統領になると、 油田開発を推し進めるためにも、クルド人が大半を占める油田地域 (キルキークなど)にイラク人を移住させ、クルド人を追い出す政策を打ち出します。 この政策は1980年代に強化され、多くのクルド人が強制的に移住を迫られることとなりました。 そして、同戦争の終盤、1988年3月から8月にかけて、「 アンファル作戦」と呼ばれる残忍非道な事件が起こります。 クルドの反政府勢力の反乱を鎮めるため、 イラク勢力は 大量の化学兵器をクルドの民間人に向けて使ったのです。 例えば、最大規模の化学兵器による攻撃の一つは、3月16日、ハラブジャ近郊で起き、マスタードガスや神経ガスによって約5000人が殺害されたと推定され、アンファル作戦はの一つであるとさえ言われることがあるのです。 また、この結果、多くのクルド人達がイラクから逃れることとなりました。 現在のイラク・クルド人自治区 2003年にサダム・フセインの政権が倒れたことで、クルド人自治区の独立機運が高まりましたが、イラク国内のアラブ人や、クルド人問題を抱えるトルコが強行に反対し、未だに独立には至っていません。 しかし、 2017年9月25日に行われた独立をめぐる住民投票では賛成派が多数となり、その結果を踏まえたクルド人自治政府は、それから2年以内の独立を目指すと発表しています。 とはいえ、• その住民投票の結果をイラク政府は認めていない• イラク政府はいつでも進軍出来る構えを見せている• 周辺をイランやトルコなどに包囲されて経済封鎖も続いている といった状況を考えると、その独立は困難を極めると予想されます。 合わせて読みたい世界雑学記事• 同地域の情勢において、クルド人は一つの鍵となる人々であるため、国際情勢を理解する上でも重要です。

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