フランケン シュタイン みたい な 怪物。 #1 フランケンシュタイナー美学

フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ

フランケン シュタイン みたい な 怪物

戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。 仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。 きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。 もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。 思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。 その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。 感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。 経営もしだいに逼迫していくだろう。 なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。 人間一人ずつに対処して治療する。 これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。 いわば人類が相手なのである。 人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。 これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。 ゼツヒツの1冊だ。 進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。 ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。 免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。 だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。 ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。 「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。 そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。 いずれも大いに考えさせられた。 イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。 イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。 COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。 本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。 リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。 さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。 「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。 まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。 スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。 かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。 だからテレワークをしたわけではない。 ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。 当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。 最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。 プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。 テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。 はたしてうまくいったかどうか。 それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。 こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。 当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。 安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。 書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。 けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。 76歳には過剰だったのかもしれない。 まあ、それはともかく、やってのけたのだ。 すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。 たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。 ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。 とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。 このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。 そのことに苦言を呈した。 もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。 つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。 ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。 そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。 RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。 新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。 そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。 せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。 千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。 「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。 それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。 そのうち放逐されるだろう。 学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。 下戸でもある。 だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。 たいへん申し訳ない。 レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。 これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。 かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。 格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。 ごめんなさい。 子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。 それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。 実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。 感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。 これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。 ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。 パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。 デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。 出版文化産業振興財団の発行である。 いろいろ参考になるのではないかと思う。 中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。 次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。 これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。 日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。 1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。 この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。 「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。 新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。 パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。 何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。 けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。 まさに隙間だけで動く。 ところがウィルスはこれらをもってない。 自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。 生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。 だから他の生物に寄生する。 宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。 ところがこれらは自立していない。 他の環境だけで躍如する。 べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。 もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。 鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。 たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。 さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。 まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。 千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。 木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。 開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。 なかなか壮観だ。 壮観なだけでなく、おもしろい。 やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。 ツイッターでは及びもつかない。 参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。 ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。 赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。 イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。 これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。 カトめぐ、よくやっている。 穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。 このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。 ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。 もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。 こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。 満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。 現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。 かなり気にいっている。 なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。 鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。 「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。 最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。 この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。 あしからず。 編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。 『編集力』は本気本格をめざしたのだ。 ぜひ手にとっていただきたい。 あしからず。 ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。 やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。 それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。 来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。 それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。 最近読んだいくつかを紹介する。 ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)は、革命思想の成長と目標をめぐって自己陶冶か外部注入かを議論する。 「する」のか「させる」のか、そこが問題なのである。 同時代社は日共から除名された川上徹がおこした版元で、孤立無援を闘っている。 2年前、『川上徹《終末》日記』が刊行された。 コールサック社をほぼ一人で切り盛りしている鈴木比佐雄にも注目したい。 現代詩・短歌・俳諧の作品集をずうっと刊行しつづけて、なおその勢いがとまらない。 ずいぶんたくさんの未知の詩人を教えてもらった。 注文が多い日々がくることを祈る。 ぼくは鷲津繁男に触発されてビザンチンに惑溺したのだが、その後は涸れていた。 知泉書館は教父哲学やクザーヌスやオッカムを読むには欠かせない。 リアム・ドリューの『わたしは哺乳類です』とジョン・ヒッグスの『人類の意識を変えた20世紀』(インターシフト)などがその一例。 ドリューはわれわれの中にひそむ哺乳類をうまく浮き出させ、ヒッグスは巧みに20世紀の思想と文化を圧縮展望した。 インターシフトは工作舎時代の編集スタッフだった宮野尾充晴がやっている版元で、『プルーストとイカ』などが話題になった。 原研哉と及川仁が表紙デザインをしている。 最近、太田光の「芸人人語」という連載が始まっているのだが、なかなか読ませる。 今月は現代アートへのいちゃもんで、イイところを突いていた。 さらにきわどい芸談に向かってほしい。 佐藤優の連載「混沌とした時代のはじまり」(今月は北村尚と今井尚哉の官邸人事の話)とともに愉しみにしている。 ついでながら大阪大学と京阪電鉄が組んでいる「鉄道芸術祭」が9回目を迎えて、またまたヴァージョンアツプをしているようだ。 「都市の身体」を掲げた。 仕掛け人は木ノ下智恵子さんで、いろいろ工夫し、かなりの努力を払っている。 ぼくも数年前にナビゲーターを依頼されたが、その情熱に煽られた。 いろいろ呆れた。 とくに国語と数学の記述試験の採点にムラができるという議論は、情けない。 人員が揃わないからとか、教員の負担が大きいからとかの問題ではない。 教員が記述型の採点ができないこと自体が由々しいことなのである。 ふだんの大学教員が文脈評価のレベルを維持できていないということだ。 ラグビージャパンはよくやった。 予選リーグは実に愉快だった。 何度も観たが、そのたびにキュンキュンした。 堀江、松島、福岡には泣かされた。 これまでは力不足だった田村もよかった。 リーチ・マイケルのサムライぶりがやっと全国に伝わったのも嬉しかったが、こういうサムライは世界のラグビーチームには、必ず2~3人ずついるものだ。 リーチも田村もルークも姫野もイマイチだった。 CTBの中村のタックルとフルバックの山中の成長を評価したい。 5年ほど前は体が辛そうだった。 平尾とは対談『イメージとマネージ』(集英社文庫)が残せてよかったと、つくづく憶う。 あのときの出版記念パーティには松尾たちも来てくれて、大いに沸いた。 美輪明宏さんが「いい男ねえ」と感心していたのが懐かしい。 まさにミスター・ラグビーだったが、繊細で緻密でもあった。 「スペースをつくるラグビー」に徹した。 トップリーグよりも、冬の花園の高校生たちの奮闘を観てもらうのが、おそらくいいのではないかと思う。 ただし、カメラワークをもっとよくしなければいけない。 孫犁冰さんが渾身の翻訳をしてくれた。 『歴史与現実』という訳になっている。 孫さんは新潟と上海を行き来して、日中の民間外交に貢献している気鋭の研究者で、すばらしいコミュニケーターだ。 イシス編集学校の師範代でもある。 韓国語になった本が7冊になっているので、少々は東アジアと日本のつながりの一助を担ってくれていると信じるが、日中韓をまたぐこういう「言葉のラグビー」や「思想文化のまぜまぜアスリート」は、いまはまだからっきしなのである。 中国文化サロン、日本僑報社、日中翻訳学院、中国研究書店、日韓大衆文化セミナー、日中韓交流フォーラムなどの充実に期待する。 東方書店の「知日」という月刊雑誌ががんばってくれている。 リドリー・スコットの『ブレードランナー』を観たとき、これがフランケンシュタイン・テーゼの新たな発展であることがすぐに伝わってきた。 ということは、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』がフランケンシュタイン・テーゼの思索の重要な成果だったということである。 その10年前、ティム・カリーの『ロッキー・ホラー・ショー』を観たときも、そこにフランケンシュタイン・テーゼが如実に生きているのを知った。 電気魔法がいっぱいに効いて、嬉しくなるほどの傑作だった。 そのほかヴィクトル・エリセの『ミツバチのささやき』にも、アンディ・ウォーホルとポール・モリセイの記念碑的ホラー映画『悪魔のはらわた』にも、フランケンシュタイン・テーゼがつかわれていた。 きっと数多くの映画作品がこの伝統を守り、そこに新たなクリーチャーの誕生と二重意識の課題を描こうとして、この普遍のテーゼに取り組んだことだろう。 怪物が出てくるからではない。 フランケンシュタイン・テーゼとは、ジョン・ミルトンの「失楽園テーゼ」を母型としているということである。 人間が人間の社会から追放されるとは何かということなのである。 実はこのようにフランケンシュタイン・テーゼがさまざまな場面に活用可能なことを普及させたのは、第538夜で採り上げたのブライアン・オールディスだった。 オールディスは『十億年の宴』(創元社)というすばらしい超SF史をエドマンド・バークの「サブライム」(崇高)をコンセプトにして綴り、その後のSFファンタジーが進むべき道を傲然と照らしてみせた。 その劈頭の栄光を飾ったのがメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』なのである。 すべてのSFはここに始まったというよりも、ここに始まるべきだとオールディスは結論づけた。 なぜなら、オールディスの考えたSFは空想のかぎりを勝手気儘に尽くすものではなく、その空想がもたらすファンタジーが人間の本質を予告するものでなければならなかったからである。 オールディスは『十億年の宴』でH・G・ウェルズの『モロー博士の島』も絶賛し、そこにもフランケンシュタイン・テーゼが生きていることを示した。 人が神にかかわって生命をつくってしまう罪とは何か。 これがフランケンシュタイン博士にもモロー博士にも共通する二重意識の罪である。 オールディスはSF作家もその罪を負っていると見た。 つまりオールディスは科学と文学の合体にあたって、科学を人間を改造しつづける罪の光条を放つ両刃の剣とみなし、すべからくSFの本質には神と人をめぐるアンドロギュヌスの論理が生きてくると予言した。 科学はどんな良心的な科学でも、人間を改造しているはずである。 このことをやめた科学技術というものは、いまのところごく少ない。 ほぼ大半が環境改造と人間改造にかかわっている。 そうであるならば、空想科学小説としてのSFは、この問題から目をそらすべきではない。 オールディスはそこに新たな文学の課題をおいたのだった。 ちなみに『十億年の宴』の二番目に出てくるSFはエドカー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルソン』だった。 二重意識(ドッペルゲンガー)を文学史上初めて物語に昇華した傑作である。 しかしオールディスは、『フランケンシュタイン』に科学と文学の逢着と合体を見るにあたって、ついつい進化論との逢着を見すぎたようだ。 そういう時代だった。 フランクリンの電気凧の実験が1752年、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』の初版は1818年。 彼女の想像力は未知の電気がもたらす世界でいっぱいだったはずである。 では、メアリー・シェリーは電気の夢だけでこんな傑作を書けたのかというと、そうでもなかった。 フランケンシュタインの物語が誕生した背景には、三人の図抜けた才能が控えていた。 それらの才能がメアリーに乗り移ったとしかいいようがない。 一人はシェリーの父親のウィリアム・ゴドウィン。 ぼくがいっとき関心をもった人物で、その急進的で純理的なアナーキー政治思想を表明した『政治的正義』(1793)やゴシック・ロマンの先駆にあたる『ケイレブ・ウィリアムス』(1794)などを書いて、フランス革命以降の政治思想を刮目させている。 二人目は、そのゴドウィンに惹かれて『プロメテウスの解縛』や『詩の擁護』を書いた若きロマン派の詩人パーシー・シェリーだ。 彼はゴドウィンのところでメアリーに出会い一目惚れ、たちまち妻を捨ててメアリーとともに旅に出る。 三人目は、そのシェリーとメアリーが駆け落ちまがいに出掛けた先にいたジョージ・ゴードン・バイロン卿。 『チャイルド・ハロルドの遍歴』で名声を博していたバイロンは、そのころ離婚問題でイギリスを永久追放になり、ジュネーブ近郊にいた(のちにイタリアに住む)。 そこへ、シェリー、メアリー、バイロンの主治医ボリドリー、メアリーの異母妹クレアが打ち揃って滞在する。 こう書くとなにやら運命の邂逅のようであるが、裏をいえば、ほんとうはメアリーは『チャイルド・ハロルドの遍歴』の前半を清書していた仲だったのだし、クレアはバイロンの妖しい遊び相手でもあった。 みんながみんなバイロン卿にぞっこん参っていたわけなのである。 これが1816年のことだった。 ここから先はにも書いたことなのだが、毎夜、エラズマズ・ダーウィンの生物思想などの話をしていたバイロン卿が、6月のある夜、怪奇譚集『ファンタスマゴリア』をたっぷり読んで聞かせたのち(『ファンタスマゴリア』については高山宏の卓抜な一冊があるので、それを読まれたい)、ひとつみんなで怪談を書いてみようという趣向を提案、ボリドリーが『吸血鬼』を、そしてメアリーが『フランケンシュタイン』を真剣に書いたということになっていく。 こうして、1816年のジュネーブ郊外のディオダディ荘が世界文学史を変えてしまったのだ。 われわれはこの別荘からドラキュラ幻想とフランケンシュタイン・テーゼという、二つのとびきりの幻想をめぐる「種の起源」を得たことになる。 ついでながら、このディオダディ荘をめぐる男女の目眩き関係を描いたのが、ケン・ラッセルの映画『ゴシック』である。 作品『フランケンシュタイン』はいくつかの「語り」によって構成されている。 姉に前代未聞の物語についての手紙を書いているロバート・ウォルトンの驚愕を隠せない語り、そのウォルトンに自身がおこした異常な科学実験の経緯を物語る若き天才科学者のヴィクター・フランケンシュタインの自負と苦悩と復讐の語り、そのフランケンシュタインによって造物されてしまった「怪物」自身が孤独を訴えながらせつせつと告白する殺人と悲哀の語り。 驚愕と異常と苦悩と孤独と復讐と悲哀。 その組み合わせ。 そのあいだにいくつかの手紙も入る。 しかし、それらの語りの群は、事件の真相がだんだんあきらかになっていくなどというよりも、しだいに人間というものの奥に逆巻く「存在の耐えられない重さ」を炙り出していく力をもっている。 おそらくはアイザック・アシモフがロボットの法則をつくるまでは、あるいはアーサー・C・クラークがを、スタニスラフ・レムが『惑星ソラリス』を書くまでは、この主題はメアリーだけの禁断の木の実であった。 死体の断片を集めてそこに電気ショックを与え、それで死者の蘇えりをおこそうという発想そのものは、ヨーロッパ中世のダンス・マカブル(死の舞踏)や奇跡劇の伝統からすれば、それほど突飛ではない。 メアリーの卓抜な発想はそこにあるのではなく、ヴィクター・フランケンシュタインが試みたそのような実験があえなく失敗に終わり、「できそこないの人間」すなわち「怪物」が出現してしまったということ(原作には、「怪物」としか出てこない。 名前はついてはいない)、しかもその怪物が、人間のような、あるいは人間が忘れていたような孤独と悲哀を感じたということにある。 この怪物は身を震わせて言う、「呪われた創造者よ、私が生命を受けた日は憎むべき日になったのである。 神は慈悲をもって人間を自らの姿に似せて美しく造ったのに、私の姿は人間に似ているがゆえにかえって不快で醜いものになったおまえ自身なのではないか」というふうに。 この問いに答えられる者なんて、まずいない。 あまりにも未来的であり、あまりにも古代的である。 哲学的にもそんなことを考えた者はまだいない。 しかしメアリーは、こうした「存在の耐えられない重さ」にさらにさらに難題を重ねて、これをヴィクター・フランケンシュタインと怪物に突き付けていく。 ひとつはヴィクターに心ならずも燃え上がった復讐のおもいとして、もうひとつは怪物がみずから死を選んでいったというおもいとして。 ぼくは、作品の最後の最後になって、怪物が創造主に愛とも呪いともつかない言葉を述べながら死んでいく場面に、を読んだとき以上の衝撃をおぼえ、本を閉じてもしばらく立ち上がれなかった。 そうなのか、こんな終わり方があったのかという壮絶な気持ちに陥った。 『失楽園』にも『ファウスト』にも腰は抜けなかったのに。 ところで、『フランケンシュタイン』は文学史上でも最もよく知られた作品でありながら、ほとんど読まれていないということでも有名な作品である。 そのかわり、誰もが映画『フランケンシュタイン』を観て、フランケンシュタイン・テーゼが何であるかをうすうす知ってきた。 とくにジェームズ・ホエールが1931年に発表した『フランケンシュタイン』が決定的だった。 その後、何十本、何百本というフランケンシュタイン映画が製作されたのだろうが、このカーロフのイメージを破るものはいまだに出ていない。 あの抒情の極みを知っているヴィクトル・エリセさえカーロフのイメージの踏襲を払拭しなかった。 けれども、ホエールの映画には決定的な問題があった。 思い出してもらえばいいのだが、あの映画は奇妙なハッピーエンドで終わっている。 そうではない。 メアリー・シェリーはそうではなかったのだ。 メアリーはフランケンシュタインにも、怪物にも、ともに死を与えたのだった。

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怪物の抱く絶望感を作者に植え続けただけ

フランケン シュタイン みたい な 怪物

チェ・ホンマン、台詞は「フンガー」のみのよくこんなオファーをうけましたね。 そもそも、フンガー、ってどういう意味をもつ言葉なんでしょうか。 深い意味はないんでしょうかね。 韓国人格闘家のチェ・ホンマン(29)が、嵐・大野智(29)が 主演する日本TV・読売系ドラマ「怪物くん」 (4月17日スタート。 土曜、後9・00)で、 ドラマ初出演を果たす事が10日、分かったみたいです。 大野ふんする怪物くんの、お供3人組のひとりであるフランケン役で、 藤子不二雄A氏(76)の原作漫画の通り、話すセリフは 「フンガー」のみしかし身長218センチの圧倒的な存在感で 物語を盛り上げるとか。 尚、他には、ドラキュラに八嶋智人(39)、オオカミ男に ダチョウ倶楽部の上島竜兵(49)がキャスティングしているみたいですが、 怪物くんの手が伸びるのはCGで再現するのでしょうかね? 「怪物くん」自体見た事は有りませんが、小さい頃男の人に 好評のアニメでした。 なにも実写化しなくなっても・・・。 ハットリくん、ゲゲゲの鬼太郎は、実写化しても さほど違和感はおぼえませんでしたが、怪物くんは、どうでしょう? 本当の「フランケン・シュタイン」はかなしい物語なんですよね〜、 ロバート・デニーロ主演の映画を見ましたが、すごく可哀想でした。 だが、、「怪物くん」のフランケンはそういった悲壮感ゼロですな。 12 Category• 583 ランキング リンク タグ•

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嵐・大野智 ドラマ「怪物くん」

フランケン シュタイン みたい な 怪物

戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。 仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。 きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。 もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。 思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。 その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。 感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。 経営もしだいに逼迫していくだろう。 なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。 人間一人ずつに対処して治療する。 これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。 いわば人類が相手なのである。 人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。 これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。 ゼツヒツの1冊だ。 進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。 ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。 免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。 だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。 ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。 「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。 そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。 いずれも大いに考えさせられた。 イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。 イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。 COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。 本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。 リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。 さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。 「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。 まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。 スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。 かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。 だからテレワークをしたわけではない。 ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。 当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。 最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。 プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。 テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。 はたしてうまくいったかどうか。 それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。 こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。 当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。 安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。 書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。 けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。 76歳には過剰だったのかもしれない。 まあ、それはともかく、やってのけたのだ。 すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。 たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。 ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。 とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。 このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。 そのことに苦言を呈した。 もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。 つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。 ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。 そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。 RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。 新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。 そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。 せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。 千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。 「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。 それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。 そのうち放逐されるだろう。 学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。 下戸でもある。 だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。 たいへん申し訳ない。 レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。 これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。 かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。 格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。 ごめんなさい。 子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。 それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。 実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。 感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。 これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。 ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。 パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。 デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。 出版文化産業振興財団の発行である。 いろいろ参考になるのではないかと思う。 中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。 次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。 これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。 日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。 1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。 この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。 「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。 新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。 パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。 何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。 けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。 まさに隙間だけで動く。 ところがウィルスはこれらをもってない。 自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。 生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。 だから他の生物に寄生する。 宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。 ところがこれらは自立していない。 他の環境だけで躍如する。 べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。 もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。 鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。 たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。 さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。 まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。 千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。 木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。 開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。 なかなか壮観だ。 壮観なだけでなく、おもしろい。 やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。 ツイッターでは及びもつかない。 参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。 ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。 赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。 イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。 これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。 カトめぐ、よくやっている。 穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。 このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。 ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。 もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。 こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。 満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。 現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。 かなり気にいっている。 なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。 鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。 「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。 最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。 この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。 あしからず。 編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。 『編集力』は本気本格をめざしたのだ。 ぜひ手にとっていただきたい。 あしからず。 ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。 やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。 それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。 来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。 それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。 最近読んだいくつかを紹介する。 ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)は、革命思想の成長と目標をめぐって自己陶冶か外部注入かを議論する。 「する」のか「させる」のか、そこが問題なのである。 同時代社は日共から除名された川上徹がおこした版元で、孤立無援を闘っている。 2年前、『川上徹《終末》日記』が刊行された。 コールサック社をほぼ一人で切り盛りしている鈴木比佐雄にも注目したい。 現代詩・短歌・俳諧の作品集をずうっと刊行しつづけて、なおその勢いがとまらない。 ずいぶんたくさんの未知の詩人を教えてもらった。 注文が多い日々がくることを祈る。 ぼくは鷲津繁男に触発されてビザンチンに惑溺したのだが、その後は涸れていた。 知泉書館は教父哲学やクザーヌスやオッカムを読むには欠かせない。 リアム・ドリューの『わたしは哺乳類です』とジョン・ヒッグスの『人類の意識を変えた20世紀』(インターシフト)などがその一例。 ドリューはわれわれの中にひそむ哺乳類をうまく浮き出させ、ヒッグスは巧みに20世紀の思想と文化を圧縮展望した。 インターシフトは工作舎時代の編集スタッフだった宮野尾充晴がやっている版元で、『プルーストとイカ』などが話題になった。 原研哉と及川仁が表紙デザインをしている。 最近、太田光の「芸人人語」という連載が始まっているのだが、なかなか読ませる。 今月は現代アートへのいちゃもんで、イイところを突いていた。 さらにきわどい芸談に向かってほしい。 佐藤優の連載「混沌とした時代のはじまり」(今月は北村尚と今井尚哉の官邸人事の話)とともに愉しみにしている。 ついでながら大阪大学と京阪電鉄が組んでいる「鉄道芸術祭」が9回目を迎えて、またまたヴァージョンアツプをしているようだ。 「都市の身体」を掲げた。 仕掛け人は木ノ下智恵子さんで、いろいろ工夫し、かなりの努力を払っている。 ぼくも数年前にナビゲーターを依頼されたが、その情熱に煽られた。 いろいろ呆れた。 とくに国語と数学の記述試験の採点にムラができるという議論は、情けない。 人員が揃わないからとか、教員の負担が大きいからとかの問題ではない。 教員が記述型の採点ができないこと自体が由々しいことなのである。 ふだんの大学教員が文脈評価のレベルを維持できていないということだ。 ラグビージャパンはよくやった。 予選リーグは実に愉快だった。 何度も観たが、そのたびにキュンキュンした。 堀江、松島、福岡には泣かされた。 これまでは力不足だった田村もよかった。 リーチ・マイケルのサムライぶりがやっと全国に伝わったのも嬉しかったが、こういうサムライは世界のラグビーチームには、必ず2~3人ずついるものだ。 リーチも田村もルークも姫野もイマイチだった。 CTBの中村のタックルとフルバックの山中の成長を評価したい。 5年ほど前は体が辛そうだった。 平尾とは対談『イメージとマネージ』(集英社文庫)が残せてよかったと、つくづく憶う。 あのときの出版記念パーティには松尾たちも来てくれて、大いに沸いた。 美輪明宏さんが「いい男ねえ」と感心していたのが懐かしい。 まさにミスター・ラグビーだったが、繊細で緻密でもあった。 「スペースをつくるラグビー」に徹した。 トップリーグよりも、冬の花園の高校生たちの奮闘を観てもらうのが、おそらくいいのではないかと思う。 ただし、カメラワークをもっとよくしなければいけない。 孫犁冰さんが渾身の翻訳をしてくれた。 『歴史与現実』という訳になっている。 孫さんは新潟と上海を行き来して、日中の民間外交に貢献している気鋭の研究者で、すばらしいコミュニケーターだ。 イシス編集学校の師範代でもある。 韓国語になった本が7冊になっているので、少々は東アジアと日本のつながりの一助を担ってくれていると信じるが、日中韓をまたぐこういう「言葉のラグビー」や「思想文化のまぜまぜアスリート」は、いまはまだからっきしなのである。 中国文化サロン、日本僑報社、日中翻訳学院、中国研究書店、日韓大衆文化セミナー、日中韓交流フォーラムなどの充実に期待する。 東方書店の「知日」という月刊雑誌ががんばってくれている。 リドリー・スコットの『ブレードランナー』を観たとき、これがフランケンシュタイン・テーゼの新たな発展であることがすぐに伝わってきた。 ということは、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』がフランケンシュタイン・テーゼの思索の重要な成果だったということである。 その10年前、ティム・カリーの『ロッキー・ホラー・ショー』を観たときも、そこにフランケンシュタイン・テーゼが如実に生きているのを知った。 電気魔法がいっぱいに効いて、嬉しくなるほどの傑作だった。 そのほかヴィクトル・エリセの『ミツバチのささやき』にも、アンディ・ウォーホルとポール・モリセイの記念碑的ホラー映画『悪魔のはらわた』にも、フランケンシュタイン・テーゼがつかわれていた。 きっと数多くの映画作品がこの伝統を守り、そこに新たなクリーチャーの誕生と二重意識の課題を描こうとして、この普遍のテーゼに取り組んだことだろう。 怪物が出てくるからではない。 フランケンシュタイン・テーゼとは、ジョン・ミルトンの「失楽園テーゼ」を母型としているということである。 人間が人間の社会から追放されるとは何かということなのである。 実はこのようにフランケンシュタイン・テーゼがさまざまな場面に活用可能なことを普及させたのは、第538夜で採り上げたのブライアン・オールディスだった。 オールディスは『十億年の宴』(創元社)というすばらしい超SF史をエドマンド・バークの「サブライム」(崇高)をコンセプトにして綴り、その後のSFファンタジーが進むべき道を傲然と照らしてみせた。 その劈頭の栄光を飾ったのがメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』なのである。 すべてのSFはここに始まったというよりも、ここに始まるべきだとオールディスは結論づけた。 なぜなら、オールディスの考えたSFは空想のかぎりを勝手気儘に尽くすものではなく、その空想がもたらすファンタジーが人間の本質を予告するものでなければならなかったからである。 オールディスは『十億年の宴』でH・G・ウェルズの『モロー博士の島』も絶賛し、そこにもフランケンシュタイン・テーゼが生きていることを示した。 人が神にかかわって生命をつくってしまう罪とは何か。 これがフランケンシュタイン博士にもモロー博士にも共通する二重意識の罪である。 オールディスはSF作家もその罪を負っていると見た。 つまりオールディスは科学と文学の合体にあたって、科学を人間を改造しつづける罪の光条を放つ両刃の剣とみなし、すべからくSFの本質には神と人をめぐるアンドロギュヌスの論理が生きてくると予言した。 科学はどんな良心的な科学でも、人間を改造しているはずである。 このことをやめた科学技術というものは、いまのところごく少ない。 ほぼ大半が環境改造と人間改造にかかわっている。 そうであるならば、空想科学小説としてのSFは、この問題から目をそらすべきではない。 オールディスはそこに新たな文学の課題をおいたのだった。 ちなみに『十億年の宴』の二番目に出てくるSFはエドカー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルソン』だった。 二重意識(ドッペルゲンガー)を文学史上初めて物語に昇華した傑作である。 しかしオールディスは、『フランケンシュタイン』に科学と文学の逢着と合体を見るにあたって、ついつい進化論との逢着を見すぎたようだ。 そういう時代だった。 フランクリンの電気凧の実験が1752年、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』の初版は1818年。 彼女の想像力は未知の電気がもたらす世界でいっぱいだったはずである。 では、メアリー・シェリーは電気の夢だけでこんな傑作を書けたのかというと、そうでもなかった。 フランケンシュタインの物語が誕生した背景には、三人の図抜けた才能が控えていた。 それらの才能がメアリーに乗り移ったとしかいいようがない。 一人はシェリーの父親のウィリアム・ゴドウィン。 ぼくがいっとき関心をもった人物で、その急進的で純理的なアナーキー政治思想を表明した『政治的正義』(1793)やゴシック・ロマンの先駆にあたる『ケイレブ・ウィリアムス』(1794)などを書いて、フランス革命以降の政治思想を刮目させている。 二人目は、そのゴドウィンに惹かれて『プロメテウスの解縛』や『詩の擁護』を書いた若きロマン派の詩人パーシー・シェリーだ。 彼はゴドウィンのところでメアリーに出会い一目惚れ、たちまち妻を捨ててメアリーとともに旅に出る。 三人目は、そのシェリーとメアリーが駆け落ちまがいに出掛けた先にいたジョージ・ゴードン・バイロン卿。 『チャイルド・ハロルドの遍歴』で名声を博していたバイロンは、そのころ離婚問題でイギリスを永久追放になり、ジュネーブ近郊にいた(のちにイタリアに住む)。 そこへ、シェリー、メアリー、バイロンの主治医ボリドリー、メアリーの異母妹クレアが打ち揃って滞在する。 こう書くとなにやら運命の邂逅のようであるが、裏をいえば、ほんとうはメアリーは『チャイルド・ハロルドの遍歴』の前半を清書していた仲だったのだし、クレアはバイロンの妖しい遊び相手でもあった。 みんながみんなバイロン卿にぞっこん参っていたわけなのである。 これが1816年のことだった。 ここから先はにも書いたことなのだが、毎夜、エラズマズ・ダーウィンの生物思想などの話をしていたバイロン卿が、6月のある夜、怪奇譚集『ファンタスマゴリア』をたっぷり読んで聞かせたのち(『ファンタスマゴリア』については高山宏の卓抜な一冊があるので、それを読まれたい)、ひとつみんなで怪談を書いてみようという趣向を提案、ボリドリーが『吸血鬼』を、そしてメアリーが『フランケンシュタイン』を真剣に書いたということになっていく。 こうして、1816年のジュネーブ郊外のディオダディ荘が世界文学史を変えてしまったのだ。 われわれはこの別荘からドラキュラ幻想とフランケンシュタイン・テーゼという、二つのとびきりの幻想をめぐる「種の起源」を得たことになる。 ついでながら、このディオダディ荘をめぐる男女の目眩き関係を描いたのが、ケン・ラッセルの映画『ゴシック』である。 作品『フランケンシュタイン』はいくつかの「語り」によって構成されている。 姉に前代未聞の物語についての手紙を書いているロバート・ウォルトンの驚愕を隠せない語り、そのウォルトンに自身がおこした異常な科学実験の経緯を物語る若き天才科学者のヴィクター・フランケンシュタインの自負と苦悩と復讐の語り、そのフランケンシュタインによって造物されてしまった「怪物」自身が孤独を訴えながらせつせつと告白する殺人と悲哀の語り。 驚愕と異常と苦悩と孤独と復讐と悲哀。 その組み合わせ。 そのあいだにいくつかの手紙も入る。 しかし、それらの語りの群は、事件の真相がだんだんあきらかになっていくなどというよりも、しだいに人間というものの奥に逆巻く「存在の耐えられない重さ」を炙り出していく力をもっている。 おそらくはアイザック・アシモフがロボットの法則をつくるまでは、あるいはアーサー・C・クラークがを、スタニスラフ・レムが『惑星ソラリス』を書くまでは、この主題はメアリーだけの禁断の木の実であった。 死体の断片を集めてそこに電気ショックを与え、それで死者の蘇えりをおこそうという発想そのものは、ヨーロッパ中世のダンス・マカブル(死の舞踏)や奇跡劇の伝統からすれば、それほど突飛ではない。 メアリーの卓抜な発想はそこにあるのではなく、ヴィクター・フランケンシュタインが試みたそのような実験があえなく失敗に終わり、「できそこないの人間」すなわち「怪物」が出現してしまったということ(原作には、「怪物」としか出てこない。 名前はついてはいない)、しかもその怪物が、人間のような、あるいは人間が忘れていたような孤独と悲哀を感じたということにある。 この怪物は身を震わせて言う、「呪われた創造者よ、私が生命を受けた日は憎むべき日になったのである。 神は慈悲をもって人間を自らの姿に似せて美しく造ったのに、私の姿は人間に似ているがゆえにかえって不快で醜いものになったおまえ自身なのではないか」というふうに。 この問いに答えられる者なんて、まずいない。 あまりにも未来的であり、あまりにも古代的である。 哲学的にもそんなことを考えた者はまだいない。 しかしメアリーは、こうした「存在の耐えられない重さ」にさらにさらに難題を重ねて、これをヴィクター・フランケンシュタインと怪物に突き付けていく。 ひとつはヴィクターに心ならずも燃え上がった復讐のおもいとして、もうひとつは怪物がみずから死を選んでいったというおもいとして。 ぼくは、作品の最後の最後になって、怪物が創造主に愛とも呪いともつかない言葉を述べながら死んでいく場面に、を読んだとき以上の衝撃をおぼえ、本を閉じてもしばらく立ち上がれなかった。 そうなのか、こんな終わり方があったのかという壮絶な気持ちに陥った。 『失楽園』にも『ファウスト』にも腰は抜けなかったのに。 ところで、『フランケンシュタイン』は文学史上でも最もよく知られた作品でありながら、ほとんど読まれていないということでも有名な作品である。 そのかわり、誰もが映画『フランケンシュタイン』を観て、フランケンシュタイン・テーゼが何であるかをうすうす知ってきた。 とくにジェームズ・ホエールが1931年に発表した『フランケンシュタイン』が決定的だった。 その後、何十本、何百本というフランケンシュタイン映画が製作されたのだろうが、このカーロフのイメージを破るものはいまだに出ていない。 あの抒情の極みを知っているヴィクトル・エリセさえカーロフのイメージの踏襲を払拭しなかった。 けれども、ホエールの映画には決定的な問題があった。 思い出してもらえばいいのだが、あの映画は奇妙なハッピーエンドで終わっている。 そうではない。 メアリー・シェリーはそうではなかったのだ。 メアリーはフランケンシュタインにも、怪物にも、ともに死を与えたのだった。

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