きた れ バウハウス。 「バウハウス」開校100年展 革新的な造形教育の一端を体験

「バウハウス」開校100年展 革新的な造形教育の一端を体験

きた れ バウハウス

デザインを学ぶ学生であれば、 バウハウスという名前を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。 バウハウスは2019年に開校100周年を迎えます。 100年経っても、世界のデザイン界に大きな影響を与え続けている バウハウス。 この機会にそのデザインや歴史について知りましょう。 編集・執筆 / Ayako Yamada, AYUPY GOTO 目次• バウハウスとは• バウハウスのデザインってどんなもの?• バウハウスの歴史• バウハウスを支えた人物たち• 今も大きな影響を与えるバウハウスのデザイン• 最後に 1. バウハウスとは、ドイツ語で「建築の家」の意味。 ここでは、美術、デザイン、工芸、建築といった、造形に関するさまざまな教育が行われました。 1933年にナチスによって閉校されるまで、 わずか14年という短い歴史でしたが、現在も世界のデザイン・建築界に影響を与えています。 産業革命以降、機械による大量生産が進む社会の中で、工業化に対する革新的な芸術運動が盛んに行われました。 その流れの中で、 バウハウスはその実験的・挑戦的な試みにより、近代デザイン成立の上で大きな役割を果たしました。 バウハウスのデザインってどんなもの? 絵画から建築まで多様な造形分野で、その時代を代表する芸術家たちが教師として集結していたバウハウス。 講師たちは、表現主義、構成主義、神秘主義など様々な思想や異なる視点を持ち、バウハウスの中ではそれらが共存し互いに影響を与えていました。 その環境の中で造形を追求し、生み出された表現は実に豊かで多様ですが、それらには共通するバウハウスのデザインの特徴があります。 それは、 余計な装飾を排除した、シンプルで機能的な美しさです。 このように、具体的な物と分離して、 抽象的な色彩や形態・素材について理論的に分析した、バウハウスの革新的な教育・研究によって、「デザイン」という概念が明確に意識されるようになりました。 そうしてバウハウスから、機械生産による新しい時代にふさわしい作品やデザインが、続々生み出されていき、バウハウスは世界から注目を集めることとなります。 その中、19世紀末にイギリスで、ウィリアム・モリスを主導者とする 「アーツ・アンド・クラフツ運動」が起こります。 これは、機械化による大量生産に異を唱え、中世の手仕事に回帰しようとする運動です。 その後、第一次大戦後のドイツでワイマール共和国が成立。 「ドイツ工作連盟」のひとりであったヴァルター・グロピウスは、1919年 美術学校と工芸学校を合併し、 国立の造形大学「バウハウス」を設立します。 バウハウスの理念は、ドイツ工作連盟の理念を強く受け継ぐものです。 初期の教育内容には表現主義的要素が強くありましたが、次第に合理性・機能性を重視した内容へ転換。 その中で、グロピウスは1923年に 「芸術と技術—新しい統一」というテーマを掲げ、バウハウスの教育方針がより明確化していきます。 一方で、ワイマール共和国の不安定な政情や、バウハウスに不満を持つ右翼政党などからの攻撃により、共和国内での反バウハウス傾向が強まっていきました。 そのため、1925年にワイマールのバウハウスは解散を余儀なくされます。 バウハウスの閉鎖後、数名の教師たちはドイツを離れ、後にアメリカへ渡ります。 グロピウスはハーバード大学で建築家の教授に就任、教師のひとり モホリ=ナジがシカゴで 「ニュー・バウハウス」を設立するなど、バウハウスの理念を国外へ広める活動を行いました。 バウハウスの創設者であり、開校から1928年まで初代校長を務めました。 「BAUHAUS」の文字が印象的なデッサウ校舎は、グロピウスの設計によるものです。 建築家としてモダニズム建築の普及に影響を与えるとともに、教育者として大衆への芸術教育の重要性を主張しました。 今も大きな影響を与えるバウハウスのデザイン 機能美を追求したシンプルなバウハウスのデザインは、100年経っても色あせることなく、今でも私たちに新鮮さを感じさせます。 バウハウスで講師をしていたパウル・レナーによるフォント 「Futura」は、現在も様々な場面で使用されているバウハウスのデザインの代表例です。 また2018年には、 Adobeがスケッチなどから再現した、バウハウスの巨匠による5つのフォントを「Adobe TypeKit」で公開。 その復刻フォントを使ったデザインコンテストを開催するなど、盛り上がりをみせています。 タイポグラフィのほかにも、建築、家具、グラフィックなど様々な分野で、バウハウスのデザインは現代も多くの人々に愛されています。 最後に 2019年のバウハウス100周年を記念して、世界中でバウハウスにまつわる展覧会やイベントが行われています。 バウハウスのデザインや教育は、現代を生きる私たちにとっても、とても新鮮で学ぶものが多くあります。 ぜひこの機会に、展覧会やイベントに足を運んだり、関連書籍を読んだりして、バウハウスのデザインに触れてみてください。

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バウハウス誕生に至るまで

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現在のグラフィックデサイン界はバウハウス・ムーブメントから大いに影響を受けています。 芸術と産業の融合である現代デザインの本質は、ある落ちぶれたドイツのデザインスクールに原点があると言ってもいいでしょう。 この学校は社会的にも政治的にも激動の時代を経て、20世紀の芸術、建築、デザインの世界に大きな功績を残しました。 バウハウス校(ドイツ語で「建築の家」の意味)は1919年にヴァルター・グロピウスによってワイマールに創設されました。 そして、第一次世界大戦後のドイツの中心的な存在となりました。 変革と失望のこの時代に、バウハウス・ムーブメントは20世紀の機械文化を取り入れようとしていました。 建物、家具、デザインというような基本の必需品について、感情にも訴えかけるような実用性のある作品が生み出されていきました。 バウハウス校は、近代社会で成功するため、近代テクノロジーを取り入れようと努力していました。 バウハウスが一番大切にしていた信念が、 形より機能 、でした。 ドイツのデッサウにあるバウハウスの校舎。 1925〜1933年の間はこのデッサウで開校していた。 (より) バウハウス校は、この校舎をこの世に存在するデザインの中で最高の作品であると信じていましたが、一方で生徒たちには、すべてのデザインの手法の中でも芸術性と工芸の2つに注目するように指導していました。 そして、理論と実践の2つを組み合わせて厳格に作られたシラバスにしたがって授業が進められていました。 1923年のワイマール時代のバウハウスのシラバス より 「形より機能」の理念を守るため、学校は基本のデザイン、特に、構成、カラーセオリー、職人の技など幅広い多様な分野について深く理解するように指導をしていました。 バウハウスは、芸術家と職人は同一だと考える信念があったので、授業では独創性よりもデザインの生産性に重きをおくことを生徒に教えていました。 そして、この学校の教師たちはそれぞれの道のエキスパートばかりでした。 ここの教師たちは、芸術や工芸の各ジャンルの最高レベルの技術と知識を持っていました。 そして各分野を確立していくための、それぞれの独創的な解釈を学校に持ち込みました。 バウハウス・モーブメントは1933年には消滅してしまいましたが、バウハウスのトップレベルの教師の教えを学ぶことで、彼らの知識を今でも十分に学習することができます。 パウル・クレー クレーの授業で使っていた絵。 色値と彩度が変化すると、受ける印象はどのように変わっていくかを表している。 より セオリーの授業の中でも特に有名なのは、パウル・クレーによる授業でした。 クレーがバウハウスで教壇に立つようになる頃にはすでに、彼は「ブラウエ・ライター(青騎士)」の名で知られるドイツの表現主義運動の創設者として地位を確立していました。 彼の担当していたカラーセオリーの授業では色の動きについて中心に進められていましが、これが20世紀の色の概念を大きく変えるものとなりました。 ジョゼフ・アルバース 次に思い浮かべるバウハウスの重要人物はジョセフ・アルバースでしょう。 彼は入門コースの責任者の一人でした。 中でもアルバースは、「素材学習」と「形の質」に注目して教えていました。 このコースは、素材、構造、機能、生産、テクノロジーの融合を目指していました。 アルバースは、当時の「形の質」に関して重要なことは、ハーモニーvsバランス、自由vs計算されたリズム、幾何学vs算数、対象vs非対称、中心的vs周辺的、という考え方にあると信じていました。 アルバートという人物については、おそらくバウハウスの時代が終わった後に完成させた、ある作品で知っている人も多いのではないでしょうか。 この作品は、バウハウス校の支持していた理念そのものでした。 このシリーズの何が重要で、バウハウス校の理念をどう踏襲しているのか、そのポイントは色と構成が本質的にリンクしているところにあります。 というのも、作品内の正方形のサイズはほぼすべて同じ比率なのに、色の使い方によって、それぞれの比率が違って見えてしまうのです。 ワシリー・カンディンスキー ワシリー・カンディンスキー: ワシリー・カンディンスキーはカラーセオリーを重視した形のセオリーを教えていました。 彼が担当していた「美術デザインの基礎」というコースでは抽象を理解するよう生徒に促していました。 しかし、カンディンスキーが自身のセオリーを発展していくことになったのは、彼の色のクラスにおいてでした。 その結果「Point and Line to Plan」という作品が生まれました。 彼は、心理学と知覚を使った新しい色の手法を確立させ、生徒にも教えていました。 そのセオリーとは、作品のタイトルにもあるように、点と線と面のそれぞれの要素を分析することをベースとしていました。 アルバースと同じようにカンディンスキーも、本来デザインというものは、構図と色の知覚的な融合によってのみ生まれると考えており、赤、青、黄色の3色を一番重要な色だと考えていました。 彼は、アートとは包括的であり、芸術でも工芸でも、彫刻、絵画、建築、ポスターデザインでも、すべて訓練した結果が出るものだと信じていました。 その時代の先端技術に興味を持っていた彼は、より現代的な表現方法や創作方法、特にポスターデザインとタイポグラフィーに力を入れていました。 その結果、タイポグラフィーと写真を統合した、タイポフォトという手法が生み出されました。 この手法は、現在の広告業界で中心的な考え方となっています。 ヘルベルト・バイヤー Universal Typeface, 1925 via ヘルベルト・バイヤーは学校で最初のタイポグラフィーの教師でした。 彼はバウハウス・ムーブメントに参加し、「ユニバーサル」と呼ばれるバウハウス・スタイルのフォントを発明しました。 このフォントは、当時はまだ完全なものではなく、1969年に「バウハウス」という名前のフォントとして完成されました。 このシンプルなフォントは、まさにバウハウスの理念を反映させたものでした。 一般的に使われているドイツ語のフラクトゥール書体とは違って、このフォントにはセリフがなく、「形より機能」の考え方に沿って作られました。 また、バウハウス校はどんなものにも応用できるすばらしいデザインを追求するという、非現実的な指針をも掲げていました。 新しいこのフォントは、読むのが難しいフラクトゥール・フォント(使用するのはエリート階級のみに限られていたという歴史があります)を脱却し、誰もがどんな場面でも使える、より実用性の高いフォントとして広がることになります。 このフォントが当時「ユニバーサル」と呼ばれていたのは、このような理由があったからです。 まとめ 今回挙げたリストだけでは、20世紀初期に始まったバウハウス校に関係する芸術家、作品、セオリー、活動、変革のすべてをカバーすることはできません。 バウハウス・ムーブメントは、建築、家具デザイン、絵画、機織りなどさまざまな分野に大きな影響を与えましたが、グラフィックデザインに関係するテーマや教えは少ししかありません。 しかし、今回最後にお伝えしたいのは、バウハウスが「職人の新しいギルド」を提唱していたことです。 バウハウスは新しい未来を作るために、芸術家とデザイナーの垣根を壊そうとしました。 そしておよそ90年経った現在、バウハウスが描いていたとおりの未来となり、良い芸術と良いデザインの融合を、はっきりと実感することができるようになりました。 芸術と工芸の境界は、実際にはこれまでもずっと曖昧でした。 グロピウスが願っていたように、この新しい融合によって、心躍るものづくりの世界が広がったのです。 バウハウス・ムーブメントについてどう思いますか? Header Image: Janos Balazs via.

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「バウハウス」開校100年展 革新的な造形教育の一端を体験

きた れ バウハウス

デザインを勉強している方はもちろん、そうでない方も1度は「BAUHAUS バウハウス 」と言う名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。 バウハウスとは、第一次世界大戦後にドイツ中部の街ワイマール共和国に設立された、美術学校のことです。 1919年から1933年の14年間、そこでは工芸、写真、デザイン、美術、建築など総合的な教育を行っていました。 その歴史は短いながら、その功績は大きく、モダンデザインの基礎を作り、今もなお世界中の建築やデザインなど、さまざまな分野に多大な影響を及ぼしています。 バウハウスとは一体どんな存在なのか、歴史を中心に見ていきたいと思います。 バウハウスが誕生するまで バウハウスのルーツは、19世紀末にイギリスで起こったアーツアンドクラフト運動までたどることができます。 アーツアンドクラフト運動とは、産業革命により粗悪な工業製品が大量に生産された状況に異議を唱え、中世の手仕事に回帰しようとする運動のことです。 このアーツアンドクラフト運動の影響を受けドイツでは、建築家や工芸家により結成されたドイツ工作連盟が誕生し、芸術と産業の融合をかかげ、製品の質の向上を目的に規格化を推進しました。 バウハウス ワイマール校 引用元:Wikipedia そして、バウハウスは当時ドイツ工作連盟で活動していた建築家ワルター・グロピウスを初代校長とし、第一次世界大戦後の混沌とした政治状勢のなか、1919年にワイマール共和国に設立されました。 バウハウスが築いた教育システム バウハウスは校長であるグロピウスを中心に、建築を最終的な教育の目標とした上で、すべての芸術の統合を目指す独自の教育システムを確立していきました。 当時を代表する芸術家ヨハネス・イッテンやワシリー・カンディンスキー、パウル・クレーなどを講師として招き、バウハウス美術教育の基礎を築きました。 バウハウスの教育システムは予備教育 基本教育 と実技の2つのコースから構成され、それぞれのコースにいるマイスター 親方 と言われる教員のもと学習するものでした。 予備教育では理念や表現、構成を学び、その後に工房にはいり木工や金工、ガラス、陶器などより実践的な技術を学ぶシステムがとられていました。 ヨースト・シュミット 1923年バウハウス展 ポスター 引用元:100 years of bauhaus 1923年に開催されたバウハウスの展覧会では、芸術と技術の新たな統一や、機械生産を前提においたプロトタイプ制作への取り組みが行われ、バウハウスは世界で注目を受ける存在となりました。 バウハウスの終焉 1925年バウハウスはワイマール共和国の経済情勢、政治的混乱により閉鎖を余儀なくされます。 しかし同年、ドイツ国内の街デッサウでバウハウスは再出発を果たし、1928年には建築家であるハンネス・マイヤーが2代目校長に就任しました。 マイヤーが校長に就任することによりバウハウスの国際的評価は高まりましたが、徹底した機能主義を方針とするマイヤーは次第に共産主義色が強くなり、校内から反感を買い解雇されてしまいます。 マルセル・ブロイヤー 「ワシリー・チェア」 引用元:Wikipedia このデッサウ時代に今日のバウハウスのイメージを形付ける作品、グロピウスの「デッサウ・バウハウス校舎」やマルセル・ブロイヤー の「ワシリー・チェア」、ハーバート・バイヤーの書体「ユニバーサル」などが次々と生み出されました。 1930年にはマイヤーの後任として、近代建築の三大巨匠の1人であるミース・ファン・デル・ローエが3代目の校長に就任。 しかし、1932年にナチスによる弾圧でデッサウ校は閉鎖し、ベルリンに移転後、1933年に完全に閉鎖します。 多くの教師陣はアメリカに亡命し、シカゴにバウハウスの意思を継ぐニュー・バウハウスを設立し、世界中にバウハウスの理念を広めていきました。 身近なところで生き続けるバウハウスの意思 設立から閉鎖まで14年間という短い期間でしたが、バウハウスの誕生は現代の美術教育の規範になる教育システムの構築、合理主義・機能主義的考えを重視した方針、大量生産を前提とした工業化社会と芸術のあり方など、バウハウス閉鎖から約80年たった今もその思想は色褪せることなく、さまざまなデザイナーや芸術家に影響を与え続けています。 わたし達が普段使っている椅子や照明は、もしかしたらバウハウスの影響を受けたものかもしれません。 近年、デザインのトレンドとなっているフラットデザインもまた、バウハウスからインスピレーションを受けているものの1つであると言えるでしょう。 LAMY 2000 引用元:LAMY公式サイト 筆記具で有名なや、のロゴにも使われている書体「Futura」なども、バウハウスに影響を受けた代表的なものであり、今もなお輝き続けています。 弊社でも意識的にバウハウスの理念を取り入れており、ヨースト・シュミットが原案素描をしたポスターを飾っています。 時代によって必要とされるものが変わるなか、変わらず今も必要とされ影響を与え続けるバウハウス。 それには時代に翻弄されながらも持ち続けた、強い信念があったからなのだと感じました。 3 2004年 株 エクスナレッジ 訂正とお詫び 掲載時「バウハウスとは、第一次世界大戦後にドイツ中部の街ワイマール共和国に設立された、世界初の美術学校のことです。 」と記していましたが、東京藝術大学が1887年に東京美術学校として設立されていたため「バウハウスとは、第一次世界大戦後にドイツ中部の街ワイマール共和国に設立された、美術学校のことです。 」に修正致しました。 訂正とともにお詫び申し上げます。

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