い だ てん 人 見 絹枝 役。 いだてん|人見絹枝のその後と死因|ご幸福?24歳で亡くなる人見絹江と有森裕子の「8月2日」感動の物語

いだてん:“人見絹枝”菅原小春の涙の懇願&激走に「鳥肌」「号泣」「感動」 最後は衝撃ナレ…

い だ てん 人 見 絹枝 役

スポンサーリンク 人見絹枝のその後 1928年8月2日、アムステルダム・オリンピック800m走で銀メダリストとなったあと、人見絹枝は3日後に同大会の走高跳に出場していました。 これは予選落ちという結果に終わりましたが、同月ベルリンで開催されたインターナショナル競技会に出場すると、人見絹江は走幅跳と800m走で優勝するという成績を残しました。 帰国後の10月、人見絹枝は第7回陸上競技選手権大会に出場していますが、このときは長旅の疲れからか100m走で橋本靜子に敗れ、その後一旦競技から離れることを決断しました。 1929年に入ると人見絹枝は積極的に若い世代の育成や講演会をこなし、様々な大会の費用工面に走り回ります。 そして春には練習を再開して競技者として遠征を行い、各大会で世界記録の更新するなど好成績を残していきました。 この年、人見絹枝が出場した大会は国内、海外を含め7大会を数え、1カ月の間で3大会に出場した時もありました。 出典: 1930年になると、女子スポーツへ発展への焦りがあったのか、人見絹枝はさらにハードな日程で大会に出場していきます。 半月の間に海外で5大会という超過密日程の中、日本女子チームを率いた人見絹枝は、高熱を出しても強行出場するという無茶っぷり。 それでも人見絹江は成績を残していきましたが、やがてその体は悲鳴を上げ、病が蝕んでいきました。 人見絹枝の体調不良と共に、徐々に成績を落としていく日本女子チーム。 これに伴って国内での反応は冷たくなり、選手たちは深く傷ついたといいます。 このため人見絹枝は競技から離れ、岡山の実家で休養することにしましたが、結局、翌日には当時働いていた新聞社での仕事や、これまでの募金へのお礼に駆け回ってしまいました。 スポンサーリンク 早すぎる人見絹枝の死因と有森裕子との「8月2日」 競技でも競技以外でも走り続けた人見絹江は1931年3月6日、ついに倒れてしまい、25日には喀血し、肋膜炎で入院。 5月31日に見舞いに訪れた恩師・二階堂トクヨは人見絹江を一目見て大病であることを見抜き、涙を流したといいます。 7月になると人見絹江は肺炎を併発。 アムステルダム・オリンピックで日本人初の金メダリストとなった戦友・織田幹雄が見舞いに訪れた時には、すでに人見絹江の姿は変わり果てていました。 そして人見絹江は7月29日に初めて「苦しい。 家に帰りたい」と弱音を吐き、8月1日に病状が急変。 アムステルダムオリンピック800m決勝の日から、ちょうど3年後の8月2日、乾酪性肺炎によって人見絹枝は24歳の若さで死去しました。 スポンサーリンク 訃報を聞いた二階堂トクヨは「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」と語っています。 また、国内だけでなく、海外にも衝撃を与えた人見絹枝の告別式には千人を超える参列者が訪れ、国際女子スポーツ連盟をはじめ世界中から弔電が寄せられました。 女子スポーツへの偏見と常に戦っていた人見絹枝は、「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける。 しかし私の後から生まれてくる若い女子選手や日本女子競技会には指一つ触れさせない!」と言葉を残しています。 その遺志はやがて後輩たちに引き継がれ、現代に繋がる日本女子スポーツ界発展の礎となりました。 人見絹枝と同じ岡山出身だった有森裕子は彼女を尊敬し、1992年バルセロナ・オリンピックのマラソンで人見絹枝以来の陸上女子メダリストになります。 驚くべきは、この有森裕子の銀メダル獲得の日。 そう、この日は人見絹枝の命日であり、人見絹枝がアムステルダム・オリンピックで銀メダルを獲得した同じ「8月2日(日本時間)」だったのです。 出典:.

次の

人見絹枝とは?生い立ちや銀メダルをとった経緯、両性具有や性別について解説!

い だ てん 人 見 絹枝 役

NHKで放送中の大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺(はなし)』(毎週日曜 後8:00 総合ほか)で、9日に放送される第22回「ヴィーナスの誕生」(演出:林啓史)に、ダンサーのが演じる人見絹枝が登場する。 菅原は、本作で初めて演技に挑戦。 持ち前の高い身体能力を生かして、周囲の女子スポーツに対する評価に苦しむ絹枝をみずみずしく演じている。 人見絹枝は、岡山の女学校で始めたテニスで圧倒的な強さを誇り、四三たちと出会う。 抜群の身体能力で陸上競技の世界記録を次々と塗り替えるも、女子離れした自身の容姿に強いコンプレックスを抱いていた。 日本人女子で初めてアムステルダムオリンピックに出場し、800メートルで銀メダルを獲得。 女子スポーツ界の先駆者として、生涯を走り続けたスーパースター。 日本のスポーツの歴史を描く『いだてん』においても重要な人物である絹枝役に演技経験はなくとも菅原に「猛烈にオファーした」と、演出の一木正恵氏が明かす。 「民放のテレビ番組で初めて存在を知り、さんとのコラボ動画でこの上なくカッコよく野生的なダンスに魅了されました。 また、『紅白歌合戦』のさんとのコラボで最も気になったのは、パフォーマンスが終わった時、彼女が舞台上をまるで畳の上のような和の空間として、座って手をついてお辞儀をした瞬間。 人見絹枝役を探すにあたり、3つのことを強く意識していました。 まずは、とんでもないポテンシャルを持ちながら、文学的で女性的な二面性。 次に、国内でのコンプレックスが、世界では賞賛に変わる。 これを体現できる体格と筋肉を持つこと。 最後に、女性が夢を託したスター、アイドルであることができること。 この3つを併せ持つ人物は、役者に限らない。 世界的な視野があること、圧倒的な存在感があること、なおかつ女性的であることが必須だと考えていました。 私の中ではかなり早い段階から菅原小春さんが浮かんでいましたが、難しいだろうと思っていました。 そんな時、菅原さんがさんと対談し、役者ではない人が演技する素晴らしさを指摘していた記事を読んで、来た!! と思いました。 これはやるかもしれない、と。 千載一遇のチャンスが訪れていると確信し、猛烈にオファーしました」。 菅原は10歳でダンスを始め、18歳でダンス留学し、またたく間に世界へと飛び出していった。 3月の出演者発表会見では「(私、ふだん)踊りをやっていまして。 日本では浮いてしまうような体型で、骨格とか、筋力を持っています。 でも、世界に飛び出した時に『私、普通じゃないか』と思って、『だったら、思いっきりやってしまおう!』というのが、人見さんと通じるものがあります。 言葉ではなく、身体で自分が胸に抱いている隠しきれない思いを全力で体当たりして、心から演じたいと思っています」と意気込みを語っていた。 第22回からの菅原の登場で、どのような化学反応が生まれるのか楽しみだ。

次の

人見絹枝|いだてん|菅原小春演じる紅い稲妻!日本女子初のメダリストの悲劇とは?

い だ てん 人 見 絹枝 役

墓は八戸市? 人見絹枝の性別は両性具有?墓は八戸市にある理由とは?身長は何cmだった? 2019年6月9日に放送されたNHKの大河ドラマ「いだてん~東京オリンピック噺~」に菅原小春が人見絹枝役として出演したそうです。 菅原小春の役者デビューによって、人見絹枝という人物への関心も高まっているそうです。 人見絹枝という人物について調べてみました。 たくさん気になるキーワードが出てきたそうです。 人見絹枝さんは1970年1月1日生まれです。 岡山県御津郡出身だそうです。 身長は170㎝で体重は56㎏あるそうです。 いだてん~東京オリンピック噺~ 第22回ヴィーナスの誕生でダンサーの菅原小春さんが人見絹枝役を演じています。 2015年6月28日、放送されたTBSのドキュメンタリー番組、情熱大陸に出演したそうです。 菅原小春のダンスの魅力を存分に見せつけたそうです。 いだてん~東京オリンピック噺~ではずば抜けた身体能力とは裏腹に外見に対するコンプレックスを抱く女性を見事に演じています。 性別 1928年2月8日、人見絹枝さんはアムステルダムオリンピックで女子の個人種目800mに出場したそうです。 日本人女性初のオリンピック銀メダリストとなったそうです。 しかし、人見絹枝さんが帰国後、待ち受けていたのはマスコミの興味本位の中傷が待ち受けていたそうです。 一部の記者からはあなた本当に女性ですか? などの失礼な質問を浴びせられたそうです。 当時、人見絹枝さんはメディアからは奇異の目にさらされること皮肉って、私は珍獣のように眺められる。 という有名なセリフを残しているそうです。 人見絹枝さんはマスコミによる風評被害に悩まされて男性説もあったそうです。 人見絹枝の男性説が一部のメディアに掲載されているそうです。 藤村テフさんとのレズ説も浮上したそうです。 当時のメディアのパッシングの酷さが浮き彫りになります。 例えば婦人画報昭和六年七月号によると、人見さんは男性か女性かあるいは中性か、これは長い間彼女のファンたちに投げかけられた謎だ。 人見絹枝が大阪の病院に入院したのが、1931年3月25日に入院したそうです。 入院している最中に上記のような記事が流れたそうです。 人見絹枝が日本のスポーツ業界にもたらした偉業は計り知れません。 人見絹枝を追い詰めた社会風潮の源はどこから来ているのかと疑問を抱きます。 両性具有 両性具有とは一つの身体に男性と女性の生殖器を持っている状態を意味しています。 人見絹枝さんに両性具有というワードが出てくるのはメディアによる風評被害の遺物と考えられます。 実は女性選手の性別には激しい論争があるそうです。 男性ホルモンであるテストステロンの血中濃度で性別を判定する検査が実施された時期もあるそうです。 インドの陸上選手であるデュティ・チャンド選手は血中テストステロン濃度が高すぎるとして、リオ五輪の出場が論争の的となったそうです。 デュティ・チャンド選手はスポーツ仲裁裁判所に異議を申し立てて勝訴したそうです。 ベルリン五輪では女子100mの金メダルを獲得したアメリカのヘレン・スティーヴンス選手はポーランドのメディアに男が女のふりをして出場していると報道して、オリンピック委員会がスティーヴンス選手の生殖器を検査する事態にまで発展したそうです。 結果、スティーヴンス選手は女性であることがわかったそうです。 八戸市の墓 2019年1月6日に歌舞伎俳優の中村勘九郎が青森県の八戸市の本覚寺に訪れて、人見絹枝の墓前に手を合わせたそうです。 人見絹枝の出身地は岡山県ですが、藤村テフという人物に人見絹枝の遺骨の粉骨が八戸市の本覚寺の藤村家の墓に納められているそうです。 人見絹枝が毎日新聞に入社後に蔦原マサと藤村テフの3名で共同生活を送っていたそうです。 藤村テフさんが炊事と洗濯を担当したそうで、人見絹枝さんと藤村テフさんはレズ関係にあった等の風評被害もあったそうです。 藤村テフさんが人見絹枝さんのマネージャーのような役割をしていたそうで、藤村テフさんの出身地である八戸市に人見絹枝の遺骨の粉骨を納めたと考えられています。 人見絹枝 人見絹枝さんは1907年1月1日生まれで1931年8月2日に亡くなっています。 岡山県御津郡出身です。 御津郡は現在で言う南区です。 陸上競技選手でジャーナリストです。 日本人女性初の女性オリンピックメダリストです。 100mと200m走り幅跳びの元世界記録保持者です。 来歴 銀メダル 菅原小春 人見絹枝さんは1907年明治40年1月1日に、岡山県御津郡福浜村福成で人見猪作及び岸江の次女として誕生しています。 人見家はイネとイグサを栽培する裕福な自家農家で5人家族だったそうです。 幼少期は魚とりと鬼ごっこをして遊んでいたそうです。 友人は女の子よりも男の子の方が多かったそうです。 1913年大正2年4月には福浜村立福浜尋常高等小学校科、現在で言う岡山市立福浜小学校に入学しています。 小学生になっても天下取りゲームでいつも一番で男子を悔しがらせたり、2階から飛び降りて下校するなど相変わらず活発な少女だったそうです。 一方学業成績も優秀で、特に国語が得意だったそうで、クラスでは級長を務めていたそうです。 6年生の時に担任の先生から短歌を習ったそうで、少女雑誌に匿名で投稿するなど、文学的才能を開花させています。 1919年大正8年に尋常科を卒業した後は高等科に進学したそうです。 女子が学問をするなんてと言われた時代に父である猪作は高等女学校への進学を勧めたそうです。 倍率3. 93倍の岡山県立岡山高等女学校、現在で言う岡山県立岡山操山高校の入学試験を突破したそうです。 1920年大正9年4月には、福浜小高等科1年を終えた人見絹枝さんは憧れの岡山県立岡山高等女学校に入学します。 当時、大供にあった岡山高女まで毎日1里半約5. 9㎞を徒歩通学しています。 同年9月に就任した校長の和気昌郎は全人教育を掲げて日本女性のたしなみとして短歌を教える傍らで生徒をテニスとバレーボールの対外試合に出場させたそうです。 人見絹枝さんは入学してすぐの県のテニス大会で岡山高女が岡山県女子師範学校に負けたことの悔しさを高価なラケットを購入して夜6時まで練習に励んだそうです。 当初、家族は人見絹枝さんが日焼けで真っ黒になることに難色していたそうです。 1921年、大正10年5月には県のテニス大会では父である猪作さんが応援に駆け付けたそうです。 この大会では、人見さんと浮田ペアは前年、岡山高女を破った岡山女師のペアに勝利して優勝旗を持ち帰ります。 人見絹枝さんは関西第一の前衛、テニスの人見さんと称えられるようになります。 1923年大正12年11月4日、大阪朝日新聞岡山通信部主催の第二回岡山県女子体育大会に脚気をおして岡山高女代表として走り幅とびで4m67当時の日本最高記録で優勝しています。 1924年大正13年、卒業を間近に控えた人見絹枝さんは進路問題に直面します。 父である猪作さんは女子師範学校への進学を望んだそうです。 母である岸江さんは花嫁修業のために栽培を学ばせたいと考えていたそうです。 一方、人見絹枝さん本人は高等師範学校文科か旧制専門学校へ進学したいと思っていたそうで、岡山高女の教師陣はスポーツの素質に注目して二階堂体操塾現在で言う日本女子体育大学へ入塾させたいと考えたそうです。 家族は反対したそうなのですが、和気校長が猪作さんに立派な人格者で教育者のトクヨに託してほしいと談判して、猪作さんはこれを認めたそうです。 二階堂体操塾への進学が決定します。 1924年3月25日、入学許可証を受け取った人見絹枝さんは当日の日記にいよいよ私は二階堂先生の生徒になるのだ。 うれしい!本当にうれしいと綴ったそうです。 4月に二階堂体操塾に入学します。 塾長の二階堂トクヨから体育の指導を受けます。 10月の第三回岡山県女子体育大会に出場して三段跳びで10m33の当時世界最高を記録します。 11月、全日本選手権・陸上競技明治神宮外苑競技場に出場しています。 三段跳びで10m38、やり投げで26m37を記録しています。 1925年、二階堂体操塾を卒業して、京都市立第一高等女学校、現在で言う京都市立堀川高校の教員、体操教員として赴任します。 しかし、二階堂からの要請で体操の実技講師として台湾各地を巡回して同年に帰国しています。 二階堂体操塾の研修生となって同校の専門学校認可を助ける。 同校は翌年財団法人日本女子体育専門学校となります。 10月、大阪体育協会主催第4回陸上競技選手権大会兼明治神宮競技大会近畿予選、大阪府立運動場に出場して50m競争6秒8で優勝しています。 三段跳びでは11m62を出して世界最高記録を更新します。 11月の第2回明治神宮競技大会に出場して50mは7秒0で優勝、三段跳びは11m35で優勝したそうです。 1926年4月、人見絹枝さんは大阪毎日新聞社に入社して運動課に配属されています。 その年の東京と大阪朝日新聞社主催四大陸上競技大会ー第一回女子競技に出場して50mは7秒0で優勝して、三段跳びは10m76で優勝しています。 5月、第二回関東陸上競技選手権大会に出場しています。 100mは13秒6で優勝しています。 砲丸投げ8ポンドで9m97の日本記録を残したそうです。 また、大阪毎日新聞社後援第三回日本女子オリンピック大会美吉野運動競技場に非公式で参加しています。 走り幅跳び5m6、砲丸投げは9m39、野球投げは25mを記録したそうです。 6月、東京日日新聞社主催第二回女子体育大会神宮に出場しています。 200mで27秒6の走り幅跳びで5m57の日本新記録を出しています。 模範競技として行われた400mRで寺尾正・文姉妹に加えた当時最高のメンバーで52秒2の日本新記録をだしています。 8月、アリス・ミリア主催の第二回国際女子競技大会ヨーテボリに日本人としてただ一人出場したそうで、走り幅跳びで5m50の世界記録で優勝しています。 また、立ち幅跳びでも2m47で優勝しているそうです。 円盤投げでは32m62で2位、100mヤード走では12秒0、60mで5位、250m走では6位という結果を残しています。 個人得点は15点を挙げて、国際女子スポーツ連盟の名誉賞を受賞しています。 なお、この遠征では初めて国外陸上競技の事情を知った人見絹枝さんは、自分のトレーニングに活かすだけではなくて専属コーチや年間を通じてのトレーニングの重要性などを著書を通じて広く後進に伝えています。 1927年4月、人見絹枝さんは谷三三五にコーチを依頼して、5月、東京日日新聞社主催第三回女子体育大会、神宮に出場しています。 200m走で26秒1、立ち幅跳びで2m61の世界最高を記録しています。 走り幅跳びも5m54で優勝しています。 大阪健母会主催・大阪毎日新聞社後援第四回日本女子オリンピック大会(美吉野)に出場しています。 400mでは61秒2で優勝しています。 50mでは6秒8の同タイムながら橋本静子さんに敗れています。 人見絹枝さんにとっては国内の大会で初めての敗戦となっています。 6月、大阪女子体育研究会主催大阪時事後援第七回大阪女子運動大会に出場しています。 100mで12秒4の当時世界タイを記録しています。 11月の第四回明治神宮大会に出場しています。 双生児の寺尾正・文姉妹と接戦の末に50mは6秒4で100mは12秒5で優勝しています。 1928年5月には健母会主催第五回日本女子オリンピック(美吉野)に出場しています。 400m、59秒00の世界最高記録を記録しています。 100m走では12秒8で優勝しています。 三種競技でも194点で優勝しています。 そのうちの100mでは12秒4の世界最高記録を残しています。 ほかには走り幅跳びでは1m43、やり投げでは28m89。 第15回全日本陸上競技選手権大阪に出場しています。 100mでは12秒2を記録して走り幅跳びでは5m98を飛んで、二つの世界記録を更新したそうです。 6月、第四回インタークラブ選手権ロンドンに出場して、走り幅跳びでは5m59でイギリスのガンを破って優勝してます。 しかし、100mヤードハンディキャップレースでは予選落ちとなっています。 7月、AAA女子選手権大会ロンドンに出場しています。 220mヤード走では26秒2、予選の25秒8は当時世界タイ記録、やり投げは35m96で優勝したものの、100ヤード走で走り幅跳びではガンの前に敗れたそうです。 1928年アムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場して、女子の個人種目すべてにエントリーしています。 しかし、走り幅跳びは採用されずに事実上100m一本に絞ったそうです。 7月30日、100m予選では1着で通過したものの、同日準決勝では12秒8で4着となって決勝進出を逃しています。 8月1日、800m予選を2分26秒2で通過しています。 8月2日、800m決勝は2分17秒6でドイツのリナ・ラケトに次ぐ2着となって人見絹枝さんは日本人女性初のオリンピックメダリストで銀メダルを獲得します。 8月5日、走り高跳びの予選に出場するも1m40で予選落ちとなります。 8月、インターナショナル競技会ベルリンに出場しています。 走り幅跳びは5m51で優勝しています。 やり投げは36m58で2位、100mは予選落ちしています。 最後の800mは2分23秒9で優勝しています。 10月、大阪体育協会主催第七回陸上競技選手権大会(大阪)に出場しています。 100mで橋本静子に2度目の敗戦を喫しています。 記録時計なし。 橋本静子さんの記録は13秒2だったそうです。 400mRでは所属チームWSCが53秒2で優勝したそうです。 この後、人見絹枝さんはいったん競技から離れるが翌春練習を再開しています。 競技者として各地に遠征する傍ら、後進の育成、講演会や大会に向けての費用工面に忙しくなります。 1929年4月、第6回日本女子オリンピック大会(美吉野)に出場しています。 三種競技(217点)で世界最高を記録しています。 100m走は12秒4、走り高跳びは1m45、やり投げは32m13、200mは26秒8で優勝しています。 80mHの13秒6は番外ながら日本記録を更新しています。 5月、東京日日新聞社主催第5回女子体育大会(神宮)に出場して200mで24秒7の世界記録を残しています。 走り幅跳びは5m92で優勝、円盤投げは34m18の日本新記録で優勝しています。 8月、国際女子オリンピック出場候補15名と2週間の合宿を行って10月の日独対抗大阪大会(甲子園競技場)にも出場して100mで12秒4を記録しています。 朝鮮・日・独対抗競技(京都府)に出場しています。 100mで12秒0、200mで24秒4、走り幅跳びで6m075を出しています。 11月、第16回全日本陸上競技選手権大会兼第5回明治神宮体育大会(神宮)に出場しており200m、は25秒4で優勝、走り幅跳びは5m91で優勝したそうです。 400mRでもLACチームの一員として51秒6の日本新記録で優勝しています。 1930年2月、日本女子スポーツ連盟臨時総会で、国際女子オリンピック大会の遠征費ねん出のために全国の女学校に応援袋を置き寄付を募ることを提案して遠征費は出発の三日前に目標額に達しています。 5月、第7回日本女子オリンピック大会(美吉野)で三種競技に出場し、201点466で優勝しています。 100mは13秒0、走り高跳びは1m40、やり投げは35m27、国際女子オリンピック大会の代表6名が決定しています。 谷三三五の下、1か月余り合宿を行います。 7月、日本女子スポーツ連盟・健母会主催渡欧女子選手権送別競技会で渡欧選手・女学校選手対抗リレーに出場して、渡欧女子選手送別競技会に出場しています。 走り幅跳びで5m90で優勝してます。 三種競技は192点、100mは13秒2、走り高跳びは1m40、やり投げは34m46で2位となっています。 やり投げ600gは3位、37m1、60mは3位7秒8、400mRでは4位52秒0、100mは準決勝敗退、200mは決勝を棄権したそうです。 個人得点は13点で2位となって、リレーの1点を加えて日本チームは参加18か国中4位となっています。 9月7日、8日は雨で、その後、人見絹枝さんは体調を崩しています。 9月11日、日本・ポーランド女子対抗競技会ワルシャワに出場しています。 60mを7秒8、100mを12秒6、走り高跳びを1m40、走り幅跳び5m39、円盤投げを32m19、やり投げを36m55に出場して、日本チームは35点対54点でポーランドに敗れています。 9月13日、日・英・独女子競技大会ベルリンに出場しています。 100mは12秒4、走り高跳びは5m56で優勝しています。 200mは28秒2で2位となっています。 やり投げは33m90で3位。 9月14日は、スイス観光して9月16日、パリで休養しています。 9月20日、日本対ベルギー対抗競技ブリュッセルに出場しています。 100mは13秒4、400mR53秒4、円盤投げは29m13、やり投げは37m25で優勝しています。 800mでは2位となってます。 日本チームは52点対47点でベルギーに勝利しています。 80m、200m、400mR、走り高跳びでは2位となっていますが、日本チームは38点対46点でフランスに敗れています。 ロンドンから海路にて11月6日に帰国しています。 国際女子オリンピック大会では好成績ではあったが、人見絹枝さんはまたチームとしも前回大会やオリンピックに比べて、結果が悪かった。 帰途、新聞報道と手紙から日本での反応が冷たいことを知った選手たちは深く傷ついたそうです。 しかも半月のうちに5つの大会が集中して肉体的にも大きな負担となったそうです。 人見絹枝さんは帰国当初、岡山の実家で休んでいたものの、翌日東京を経ったそうです。 のちに扁桃炎になったそうです。 正月までほとんど休みがなくて、新聞社での仕事と募金へのお礼を行ったそうです。 しかし、人見絹枝さんは1931年昭和6年3月6日に病に伏します。 大阪・十三から尼崎市つか口に引っ越します。 3月25日の早朝に入院します。 担当医は岡山出身で、妻は岡山高女の出身であったことから手厚い医療を受けることができたそうです。 人見絹枝さんの病室には軽井直子という名札が付けられたそうです。 5月31日に見舞いに訪れた二階堂トクヨさんは一目見て大病だあることを見抜き、涙を流して、看護人、藤村蝶さんに50円を手渡したそうです。 その後、世間のわずらわしさから避けるために、別館2階に病室を移されます。 7月中旬には肺炎を併発して、見舞いに訪れた織田幹雄さんは変わり果てた姿に絶句したそうです。 7月29日、病室を本館に移して、入院してから初めて苦しい、家に帰りたいと弱音を吐いていたそうです。 8月1日18時過ぎに病状が急変して8月2日午後0時25分、結核で亡くなることとなります。 24歳没。 辞世の詩は息も脈も高し、されど、わが治療はいき更に高し。 アムステルダムオリンピック800m決勝の日から、ちょうど3年後の日です。 危篤の報を聞き駆け付けた両親は娘の死に間に合わず、大阪に向かう途中姫路駅のラジオ放送で知ることとなります。 8月3日、人見絹枝さんの遺体は阿倍野斎場にて火葬されたそうです。 8月5日、大阪毎日新聞社による神式の告別式が行われています。 式には1000人超の参列者が訪れて、国際女子スポーツ連盟のアリス・ミリアをはじめ世界中から弔電が寄せられたそうです。 いだてんで人見絹枝さんを演じている菅原小春さんは現在27歳。 千葉県山武市出身の日本の女性ダンサーです。 また振付師をされているそうです。

次の