おぼろ 流れ星。 流れ星 外道剣 淫導師・流一郎太 (コスミック時代文庫)

季語から見た夜空とこれから楽しめる「流れ星」(a.bbi.com.twサプリ 2014年12月07日)

おぼろ 流れ星

夜空を駆ける一筋の流れ星。 一瞬でその姿は消え去る。 だけれども。 もし願い事を3回。 たった3回唱えられたら、どんな願いでも叶う。 そんな迷信だけを信じて、この空の下で何度も挑戦してきた。 そして今夜。 俺はついに成し遂げた。 「やあ。 頑固で諦めの悪い少年。 君の願いを叶えにきたよ」 突然俺の真上に現れたのは今まで見たこともない神々しい存在。 その体からは煌々と光が溢れ、夜空の下ではあまりにも眩しい。 顔も姿もおぼろげだが、圧倒的な存在感には昔馴染みのような安心感すら覚える。 失礼のないようにせねば。 「お、お初にお目にかかります。 あなたは天からの遣いですね」 「…ええ、そうね。 君の願いを叶えにきたの」 頭上から優しい声が降り注いでくる。 「では、今すぐに俺を」 「ちょっと待って。 まずは話を聞いてくれるかしら」 「わかりました。 しかし、俺は早くあいつのところに行かなくては」 「ふふっ。 そう焦らないで。 まずは3つの質問に答えて」 「わ、わかりました。 早くお願いします」 「1つ目。 あなたは一体何年間、ここで願い続けていたのかしら」 夜空を見つめては流れ星を探すことを延々と繰り返していた。 はっきりとは覚えていない。 「1年ほどでしょうか」 「違うよ。 300年」 「300年…。 まさか…。 そんなの嘘だ」 ありえない。 そんなに時間が経っているなんてありえない。 あいつが無理やり連れていかれたあの日だって、昨日のように思い出せる。 知らない間に300年も経っていたってのか。 それじゃ、願いを叶えたって意味が。 「2つ目。 あなたの願いを叶える意味はありそうかしら」 ない。 あるわけない。 300年だ。 あいつも死んでいるに決まってる。 たとえ願いを叶えたとして、あいつをこの手に取り戻すことも不可能だ。 「3つ目。 それでもあなたは生き返りたいのかしら」 今さら俺が生き返ったところで何の意味もない。 ただ無意味に2度目の人生を終えるだけだ。 「わかってもらえたようね。 じゃあ、新しい願い事は何にするの」 「俺、会いたい人がいるんです。 絶対に会わなきゃいけないんです。 今あの世にいるのか、もしかしたら生まれ変わってるのかもわからないけど。 それでも、叶えてもらえますか」 「それはできないなあ」 「どうしてですか」 「もう。 相変わらず鈍いなあ」 声の主がすうっと頭上から舞い降りてくる。 おぼろげだった姿が、今ははっきりと見える。 「その願いはもう叶ってるからだよ」.

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流れ星に願いを込めて

おぼろ 流れ星

1 2 1 十九人目の子 文化十二年 (一八一五)十月二十九日、琵琶湖 (びわこ)のほとり彦根城の夜は静かにふけてゆきました。 寒空に星がきれいにまたたいています。 彦根三十五万石の前城主井伊直中 (いいなおなか)は心が落ち着かないまま、美しくまたたく星を眺めていました。 「おお、星が流れる。 」 一つ、二つ、すみわたった空に、流れ星が見えました。 「また、星が流れる。 」 直中はじっと尾をひいて流れる星のゆくえを見つめました。 星空はきれいにすんでいました。 槻 (けやき)御殿は美しくまたたく星空の下にぼうっと影絵をうかせていました。 槻御殿の東隣の玄宮園 (げんきゅうえん)は唐 (中国)の有名な景色をまねてつくられた庭園で、夜の眺めでも星あかりの林泉 (りんせん)のたたずまいがくっきりしています。 時期おくれの、虫の鳴声がきこえます。 直中 (なおなか)は昼に散歩した玄宮園のほうに目をやりながら、流れ星を数えていました。 直亮 (なおあき)に家をゆずって隠居の身である直中は、星空の夜にしずんだ槻御殿の一室で、もの思いにふけっていました。 十三人の男の子と、五人の女の子のことが頭をかすめたのです。 「わが子ながら、それぞれに運命の星を背負っている。 」 名君といわれた直中も、子供のことになると心が弱くなるのでしょう。 生まれつき、ひよわで名をつけぬうちに死んだ子もありました。 直中は五十歳になっていました。 「五十年が夢のようだった」 直中は、これからさき何年生きるかわからない自分の老いさきのことも、ふと考えてみるのでした。 「直亮が、しっかり者だから、井伊家は安泰だ。 」 直中は寒気がしみてくるような自分の心に言い聞かせてみました。 星空の下に静まりかえっていた槻御殿が、急にあわただしくなりました。 直中は思い出からよびもどされて、玄宮園から目をはなしました。 家臣が側室お富の方が男の子を安産したことを伝えました。 「男の子か」 直中は十四人めの男の子を、心から祝福しました。 「この年になって………」 槻(けやき)御殿。 今は楽々園と呼ばれている。 玄宮園(げんきゅうえん) 直中は五十歳という、自分の年を考えないわけにはゆきませんでした。 しかし年とってからの子こそ、かわいさがまさる感情をおさえることができませんでした。 「お富、でかした」 お富の方は彦根御前といわれる美人で、才気のすぐれた女性でした。 「おお、星が流れる」 またたく屋空に尾をひいた流星が、直中の喜びの心にふと影をおとしました。 「また、星が流れる。 」 きらめくその光は この世に新しい生命をうけた男の子の運命を予言するかめように、直中の心を通り過ぎました。 「生まれた子にどんなことがあろうと、兄の直亮 (なおあき)はしっかり者だから彦根藩は安泰だ」 直中は、流れ星の印象を振り切るようにして、お富の方のところに急ぎました。 直中は、その手をしっかりにぎりました。 三十一歳の女ざか力のお富の方は目もとの薄紅に感情を表わして、言葉にならない感激を味わっていました。 「お富、でかした」 直中は細おもての彦根御前の横顔の線を美しいと思いました。 「よい子だ。 」 「…………。 」 お富の方はうっとりと、その言葉をかみしめていました。 『この子は。 何か大きなことをやりそうだ。 」 「おまえにあやかって美男子になるだろう。 彦根藩にはできすぎた子だ。 」 「…………。 」 お富の方はしみじみと女のしあわせを感じました。 全身に暖かな血の流れが感じられました。 「よい子だ、よい子だ」 直中の言葉は喜びにあふれているようにお富の方には感じられました。 そして胸の底に、母親の実感がわいてきました。 」 お富の方は、うれしさに涙ぐんでいました。 直中は、その美しい横顔の線をじっと見つめながら、十九人目のこの男の子が、自分の最後の子供になるかもしれないと思いました。 自分ももう五十歳だという年寄りじみた感じが、浮んでくるのをどうすることもできませんでした。 実際には直中は、その後に二十人めの男の子をもうけたのです。 しかしこのときには、本当にそんな感じを持ちました。 当時の殿さまは正妻のほかに、側室を持っていたので子供が多かったのです。 直中は涙ぐむお富の方を、いとしげに見やりました。 生まれてきた男の子は、お富の方との間にもうけた三人めの子でした。 直中は母親の顔というものは、最初の子供を産んだときと変わらないものだと感じていました。 そのとき突然この男の子の生まれるころ、星空をかがやかして消えていった流れ星の印象が強く思い出されました。 「流れ星………」 直中は小さな声でつぶやくようにいって、ふっと声をのみました。 お富の方に聞かれはしなかったかと心配しましたが、お富の方には聞えなかったようです。 直中には流れ星が、この男の子の何かはかり知れない不吉な運命を、表わしているように感じられたのです。 だからお富の方に、そのことを悟られまいとして、声をのんだのです。 どえらいことをやりそうな子供、そして何かわけのわからない不吉な運命を背負った子供、それがいま生まれてきた子供なんだ、と直中は自分の心の中だけで繰返しました。 男の子の誕生にわきたつ喜びに包まれて、槻御殿の夜はふけてゆきました。 直中だけは喜びと、何かしらわけのわからない不安のいりまじった複雑な気持ちで、その夜を過ごしました。 「大殿さまの可愛がりようは、まあ何ということでしょう」 「年とってのお子さまほど、可愛いといいますからね」 家臣たちは、鉄之介を可愛がる直中の話題でもちきりでした。 直中は流れ星の運命を背負って生まれてきた男の子に、強く生きるようにという親心で、鉄之介と名づけました。 「さすがは彦根御前さまのお子さまです。 それにつけても、鉄之介さまの知恵の付き方の早いこと」 「大人の言うことも、すぐ飲込んでしまわれる。 」 「うっかりしたことは 言えませんぞ」 「すえおそろしい方です。 お名前のように、鉄の心をお持ちになられるのでしょう。 」 「殿さまを上まわるお人柄になられるかもしれません。 」 「シーッ、そんなことを口外してはなりません。 なんといっても殿さまはご正室のお子さまではありませんか」 口さがない家臣たちの間で鉄之介は話題の中心でした。 彦根藩第十二代の藩主となった直亮 (なおあき)は直中 (なおなか)の正室お文の方の子でした。 隠居した直中のあとをうけて、立派な家柄をほこる彦根藩主となったのですが、子供がありません。 そこでいずれ世継をきめなければなねませんが、直中は十一人めの男の子直元 (なおもと)を考えていました。 直元の母親は彦根御前のお富の方でした。 従って直元は、鉄之介と血のつながった兄にあたります。 遠慮のない家臣のびそひそ話に。 、 「鉄之介さまはお兄さまの直元さまより、お利口そうです」 「彦根藩をお継ぎになるのはいずれは直元さまでしょうが、鉄之介さまの方が名君になられそうです。 」 ななどという声もきかれました。 槻御殿でまだ幼い鉄之介の評判がよかったのは、お富の方の愛情がもっぱら鉄之介に注がれていたことにもよります。 物心ついた鉄之介が人生で初めての悲しい体験をしたのは、美しい母お富の方が五歳のとき、たちの悪い風邪をこじらせて急死したことでした。 お富の方はまだ三十五歳の女ざかりでした。 彦根御前の死で槻御殿のはなやかな空気はしぼんでしまいました。 鉄之介にはまだ本当に母の死というものの実感が湧いてきませんでした。 しかし父の直中の涙を見て、子供心にもおぼろげながら、死というものの悲しさを知りました。 五十五歳の直中はまだ老い先が短いというほどではありません。 しかし愛していたお富の方の突然の死でがっかりしてしまいました。 急に全身が力が抜けたようになってしまったのです。 お富の方の亡きがらは佐和山の麓にある竜潭寺 (りゅうたんじ)の境内で火葬にされました。 直中は身分のちがうお富の方のお葬式に参列することができません。 そこで槻御殿の窓からよく見える佐和山の麓の竜潭寺を葬儀の場所にえらんだのです。 お富の方によせる最後の心使いでした。 色づいた佐和山の木々のあいだから、ゆっくりと火葬の煙が立ちのぼってゆきました。 お富の方はもうこの世にはいない、そう思うと直中ははらはらと涙をこぼしました。 秋空にただよう煙が秋のすんだ日ざしのなかで、いろいろの形をとっては消えてゆきます。 それを見ていた直中は、ふと鉄之介が生まれたときの流れ星を思い出しました。 「かわいそうな鉄之介………」 直中はまだ甘えたいさかりに、美しい母をなくした鉄之介を憐れに思いました。 母親の分まで自分が鉄之介を可愛がってやろうと決心しました。 文政二年 (一八一九)のことでした。 あくる年、文政三年 (一八二〇)三月三日。 桃の節句の日に、直中の十五人めの男の子が生まれました。 もう子供はできないと思っていた直中の最後の子供です。 男の子は直恭 (なおゆき)と名づけられました。 直恭は鉄之介とは腹違いの弟です。 母親はなくなった彦根御前ほどの美女ではありませんでした。 家柄も彦根御前とはくらべものになりませんでした。 鉄之介は弟ができて急に大人びたように感じられました。 弟の直恭には、母親がいるのに自分には母親がいない。 子供心にもそんな気持が、鉄之介を大人びさせたものでしょう。 召使いと一緒に玄宮園で遊びながらき鉄之介は 可愛がってくれた母のお富の方の面影を追いました。 「母上………」 鉄之介は心のなかで母を呼びました。 母親のない不憫な鉄之介を、目のなかに入れても痛くないように直中は可愛がりました。 「親がなくても子は育つ」 直中は鼻すじのとおった鉄之介の面差しに、美しかった彦根御前の生き写しを見ました。 鉄之介はこうして、直中に可愛がられながらすくすくと成長しました。 「鉄のように強くなれ」 直中が名づけたとおり、鉄之介は強く育ちました。 めったに泣きません。 喧嘩をして相手を負かすことはあっても、負けることはありませんでした。 この鉄之介が井伊直弼の子供のときの名前です。 お富の方の三番めの子でしたから鉄三郎とも呼ばれました。 2 文武 (ぶんぶ)両道 直中は馬術が好きでした。 直弼は馬に乗る父の勇ましい姿が好きでした。 おっかなびっくりでしたが、父に抱かれて馬の背に乗せてもらいました。 「武門に生まれたからには、武術のたしなみがなければならぬ」 直中はそう言ってまだ幼い直弼を、よく馬場に連れてゆきました。 直中はまた直弼をよく射的場に連れてゆきました。 直中は銃術で、一貫流 (いっかんりゅう)と呼ばれる一派をたてるほどの腕前でした。 「この銃をもってみなさい。 」 直中はほほえみながら、小銃を直弼に渡しました。 でも子供の直弼には重くて持上がりませんでした。 それでも直弼は顔を真赤にして、小銃を持上げようとしました。 「よし、よし、無理をするな」 直中は、直弼から取上げた小銃で、射的場 (しゃてきじょう)の的 (まと)を狙いました。 磨かれた小銃の銃身の重い感じが、まだ赤い顔をしている直弼の腕に残っています。 「ズドーン!」 射的場の空気をふるわせて発射された弾が、的をいぬきました。 「どうだ、命中したろう。 」 直中は満足そうに、わが子の顔をのぞきこみました。 直弼はその目の光に、母のもっていない父の愛情を感じました。 直弼は男の子に生まれたことを、よかったと思いました。 「父上、もう一度持たせてください」 直弼は父の直中にせがんで、小銃の銃身に手を伸ばしました。 顔を真赤にして直弼は力んでみましたが、やはり小銃は持ち上がりませんでした。 「よいしょ」 父は笑っていました。 「よいしょ」 直弼がいくら力んでも、とうとう小銃は持ち上がりませんでした。 「今に軽々と持てるようになる」 小銃は肩幅のがっちりした父の手に取り戻されました。 直中の頭髪にはめっきり白髪がふえていました。 しかし直弼は父の幅広い肩を、頼もしく見上げてにっこりしました。 父と一緒にいることの安心感が、清水のように吹き出してきました。 父は額にうっすらと汗をかき、こめかみの血管がふくれていました。 彦根藩の藩校は稽古館 (けいこかん)と呼ばれました。 直中が寛政 (かんせい)十一年 (一七九九)七月に創立したものです。 儒学 (じゅがく=中国の学問)と国学を重んじておりました。 儒学を縦糸とするならば、国学は横糸でした。 儒学の有名な学者には沢村琴所 (きんしょ)がおりました。 藩校を創立するときに力をつくした人に僧海量 (かいりょう)がおりました。 海量は儒学にくわしいぽかりでなく、国学者としてもすぐれていました。 有名な国学者である賀茂真淵 (かものまびち:一六九七〜一七六九)の門人でした。 賀茂真淵の門人で、たいそうすぐれた国学者であった本居宣長 (もとおりのりなが:一七三〇〜一八〇一)が、彦根にやってきたことがありました。 その学風をしたって彦根藩の家老をはじめ十名が、本居宣長の門人になりました。 村田泰足 (やすたり)や岡村教邦 (のりくに)もそのときに門人になった人たちです。 この二人は直弼の先生となって教えることになりました。 本居宣長は和歌にもすぐれておりました。 その影響で弟子たちも和歌をよみ、風雅 (ふうが)の道にいそしむことになりました。 そして直弼は村田泰足や岡村教邦について和歌を学びました。 とにかく直弼は勉強ずきでした。 頭がよくものおぼえが抜群であったのは親ゆずりでしょう。 なくなった彦根御前は美人であったばかりでなく、頭のきれる才知にたけだ女性で、いまはやりの言葉でいえば才女でした。 直中と二十歳ちかく年が違っていたのですが、名君の直中も一目おいていたほどです。 「お富の方が生きていたら………」 直中が時々愚痴のようにもらすのは、頭のよい直弼が母親に似ているところからくる、素直な気持ちの表われです。 一を聞いて十を悟る直弼を見ていると、お富の方が生きていて育てるなら、直弼がもっと賢くなるだろうという親の繰り言でした。 五歳のときに死んだ母親ですから、直弼の記憶の中に生きている母親は乳房をくわえたことも、しっかりとは思い出せない、おぼろげな面影です。 あるとき直中は、直弼が一人でじっと母の形見の手鏡を眺めているのを目にとめました。 手鏡は余り大きなものではありません。 しかし鏡の周りに落ち着いた飾りのある、形のよいものでした。 部屋のなかで母の残した鏡をじっと見つめている直弼の姿を見かけた直中は、気づかれないようにその場を去りました。 「母にあやかれ」 直中はわが子を励ますように、そっとつぶやきました。 声にならない言葉でした。 直弼の部屋にあった母の形見は手鏡だけでした。 直中はその手鏡が、直弼の勉強机の引出の奥に、しまわれているのを知っていました。 「頭のよい子だが、体もきたえよう。 」 直中は目をかけている直弼が、文武両道の達人になることを望んでいました。 頭のよいのは親ゆずりだとして、母のように若死にしては困ると思いました。 文政八年 (一八二五)四月四日、藩主の直亮 (なおあき)は直元 (なおもと)を養子にしました。 直亮に子供がないことは直亮ばかりでなく、直中も困ったことだと思っていました。 直亮にもしものことがあったら、彦根藩三十五万石はどうなるか、それが心配であったのです。 徳川幕府は長いあいだ鎖国をして、外国との交通を絶ちきっていました。 そのため島国の日本は太平の眠りをむさぼることができたのです。 しかし東海の島国日本も、いつまでも安眠をむさぼっていられない形勢になってきました。 前年の文政七年 (一八二四)には、五月にイギリスの捕鯨船が日本にやってきて、その船員が常陸 (ひたち=茨城県)の大津浜に上陸しました。 水や焚き木がほしいということでした。 悪いことはしませんでしたが、異人がやってきたというので、大騒ぎになりました。 七月にはやはりイギリスの捕鯨船が、薩摩の宝島にやってきました。 鉄砲を射ち、牛をぬすんでゆきました。 これも、大騒ぎになりました。 うかうかしていると外国人が、軍艦や船にのってやってきて、どんなことをするかわからないぞ、そんな不安がきざしたのです。 水や焚き木や食べ物が欲しいというだけならよいのですが、青い目をした背の高い異人の洋服は普段、見なれないものでした。 そのうえ持っている銃が、いつ火を噴くかわかりません。 女や子供が、さらわれるかもしれないのです。 悪くすると、日本が占領されてしまうかもしれません。 元寇 (げんこう)のあった時 (一二八一)には神風がふいて、襲ってきた艦船はみな沈没してしまいました。 しかし長い鎖国の間に、ロシアやイギリスの船が日本にやってきて、通商を求めたり侵入をはかったことがありました。 それらは大事件にはなりませんでしたが、奉行が責任をとって自殺したこともあります。 不都合な事件がたびかさなると、世の中が騒がしくなってきました。 徳川幕府は国内がいたずらに騒ぐのを恐れて「異国船打払令」を出しました。 外国の船がやってきたら、打ち払えという命令です。 いまから考えるとずいぶん乱暴な命令のようですが、そうしないと国内が治まらなかったのです。 文政八年の二月のことでした。 海に面していていつ外国船がやってくるかわからない藩では、沿岸の護りを堅めました。 異人船がやってきたら皆うち沈めてしまえとばかり、大いに士気が上りました。 彦根藩は海に面していません。 ですから異国船打払令は直接には関係がありません。 しかし幕府のこの命令の持っている重大な意味は、直中にも直亮 (なおあき)にもよくわかりました。 「大変なことになった」 隠居の身分の気楽な直中も、時代が変ってきたことをひしひしと感じました。 「うかうかしてはいられないぞ。 当年とって三十二歳、男ざかりの藩主直亮も、時代の動きをすばやく感じとりました。 江戸の水は直接、ロンドンにつながっていることを、直亮はよく知っていました。 「父上、直元を養子に迎えたいと思います」 直亮は自分の考えを直中に伝えて了解を求めました。 「そなたに、子がないからのう」 子供のない直亮 (なおあき)は前から直元を養子にすることを考えていたのですが、異国船打払令が出たことで心のふんぎりがついたのです。 直亮と直中は多くを話さなくても、胸のうちは通じていました。 「直元はお富の方に似て頭がよい。 じゃが体は余り丈夫でない。 体をきたえなならん」 直元は直弼と六つちがいです。 家臣の間では六つ年下の直弼のほうが、同じ彦根御前の子供であっても人物だと見られていました。 しかし、ものには順序というものがあります。 直亮も直中も、そのことを考えたのです。 十五人もいた直中の男の子のうち生きている者で井伊家に残っていたのは、藩主の直亮のほかには、直元 (なおもと)・直弼 (なおすけ)・直恭 (なおゆき)の三人だけでした。 そのほかの男の子たちは他家へ養子にいって一城のあるじとなったり、彦根藩の家老の家柄をついで重臣となったりしていました。 直元と直弼は直中が愛したお富の方の子ですから、直亮が腹違いの弟を自分の養子にする場合に、六歳年長の直元をえらんだのは自然のなりゆきです。 末っ子の直恭は、まだ六つの子供でしたから、直中の念頭にはありませんでした。 井伊家では藩主になるもの以外の男の子はよその家に養子にいくか、または家臣に養われてその家を継ぐことになっていました。 そうならない場合にはわずかな俸禄 (ほうろく)をあたえられて、貧乏生活に耐えなければなりませんでした。 藩主や藩主の後継にもし万一のことがあったら、井伊家をついで殿さまにならなければならないわけです。 そういう非常のときに井伊家を継ぐものは貧乏生活に耐えて、人間を鍛えられた人物であった方がよいわけです。 こういう仕組みをつくったのは井伊家第二代の直孝 (なおたか)でした。 直孝は井伊家の基礎をつくった名君です。 自分が側室の子であったため、本来なら井伊家の第二代を継ぐはずではなかったのです。 ところが兄が体が弱かったため後継になったのです。 直孝がきめた井伊家の世継ぎの仕組みは、自分の体験にもとづいて井伊家の発展を考えたためでした。 直中と直亮がとった方法は、この井伊家のしきたりを守ったものでした。 「流れ星。 」 直中は直元より体の丈夫な直弼を、直亮の養子に考えたこともありました。 しかし直弼が生まれたときの、夜空にきらめいて消えていった流れ星の思い出が、それをためらわせました。 しかも同じ母の子で、六歳の兄である直元のほうが、世間の常識からは受入れられるでしょう。 「ものには順序というものがある。 」 直中は自分に言い聞かせて、直亮の言葉に賛成しました。 こうして直元が直亮の養子になったのです。 直亮に万一のことがあれば、直元が直亮のあとをうけて彦根藩三十五万石の殿さまになることがきまりました。 器量もよく文武 (ぶんぶ)両道にもすぐれた直弼は、人生の別れ道の最初で、裏道を歩くことになりました。 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1 2 1 十九人目の子 文化十二年 (一八一五)十月二十九日、琵琶湖 (びわこ)のほとり彦根城の夜は静かにふけてゆきました。 寒空に星がきれいにまたたいています。 彦根三十五万石の前城主井伊直中 (いいなおなか)は心が落ち着かないまま、美しくまたたく星を眺めていました。 「おお、星が流れる。 」 一つ、二つ、すみわたった空に、流れ星が見えました。 「また、星が流れる。 」 直中はじっと尾をひいて流れる星のゆくえを見つめました。 星空はきれいにすんでいました。 槻 (けやき)御殿は美しくまたたく星空の下にぼうっと影絵をうかせていました。 槻御殿の東隣の玄宮園 (げんきゅうえん)は唐 (中国)の有名な景色をまねてつくられた庭園で、夜の眺めでも星あかりの林泉 (りんせん)のたたずまいがくっきりしています。 時期おくれの、虫の鳴声がきこえます。 直中 (なおなか)は昼に散歩した玄宮園のほうに目をやりながら、流れ星を数えていました。 直亮 (なおあき)に家をゆずって隠居の身である直中は、星空の夜にしずんだ槻御殿の一室で、もの思いにふけっていました。 十三人の男の子と、五人の女の子のことが頭をかすめたのです。 「わが子ながら、それぞれに運命の星を背負っている。 」 名君といわれた直中も、子供のことになると心が弱くなるのでしょう。 生まれつき、ひよわで名をつけぬうちに死んだ子もありました。 直中は五十歳になっていました。 「五十年が夢のようだった」 直中は、これからさき何年生きるかわからない自分の老いさきのことも、ふと考えてみるのでした。 「直亮が、しっかり者だから、井伊家は安泰だ。 」 直中は寒気がしみてくるような自分の心に言い聞かせてみました。 星空の下に静まりかえっていた槻御殿が、急にあわただしくなりました。 直中は思い出からよびもどされて、玄宮園から目をはなしました。 家臣が側室お富の方が男の子を安産したことを伝えました。 「男の子か」 直中は十四人めの男の子を、心から祝福しました。 「この年になって………」 槻(けやき)御殿。 今は楽々園と呼ばれている。 玄宮園(げんきゅうえん) 直中は五十歳という、自分の年を考えないわけにはゆきませんでした。 しかし年とってからの子こそ、かわいさがまさる感情をおさえることができませんでした。 「お富、でかした」 お富の方は彦根御前といわれる美人で、才気のすぐれた女性でした。 「おお、星が流れる」 またたく屋空に尾をひいた流星が、直中の喜びの心にふと影をおとしました。 「また、星が流れる。 」 きらめくその光は この世に新しい生命をうけた男の子の運命を予言するかめように、直中の心を通り過ぎました。 「生まれた子にどんなことがあろうと、兄の直亮 (なおあき)はしっかり者だから彦根藩は安泰だ」 直中は、流れ星の印象を振り切るようにして、お富の方のところに急ぎました。 直中は、その手をしっかりにぎりました。 三十一歳の女ざか力のお富の方は目もとの薄紅に感情を表わして、言葉にならない感激を味わっていました。 「お富、でかした」 直中は細おもての彦根御前の横顔の線を美しいと思いました。 「よい子だ。 」 「…………。 」 お富の方はうっとりと、その言葉をかみしめていました。 『この子は。 何か大きなことをやりそうだ。 」 「おまえにあやかって美男子になるだろう。 彦根藩にはできすぎた子だ。 」 「…………。 」 お富の方はしみじみと女のしあわせを感じました。 全身に暖かな血の流れが感じられました。 「よい子だ、よい子だ」 直中の言葉は喜びにあふれているようにお富の方には感じられました。 そして胸の底に、母親の実感がわいてきました。 」 お富の方は、うれしさに涙ぐんでいました。 直中は、その美しい横顔の線をじっと見つめながら、十九人目のこの男の子が、自分の最後の子供になるかもしれないと思いました。 自分ももう五十歳だという年寄りじみた感じが、浮んでくるのをどうすることもできませんでした。 実際には直中は、その後に二十人めの男の子をもうけたのです。 しかしこのときには、本当にそんな感じを持ちました。 当時の殿さまは正妻のほかに、側室を持っていたので子供が多かったのです。 直中は涙ぐむお富の方を、いとしげに見やりました。 生まれてきた男の子は、お富の方との間にもうけた三人めの子でした。 直中は母親の顔というものは、最初の子供を産んだときと変わらないものだと感じていました。 そのとき突然この男の子の生まれるころ、星空をかがやかして消えていった流れ星の印象が強く思い出されました。 「流れ星………」 直中は小さな声でつぶやくようにいって、ふっと声をのみました。 お富の方に聞かれはしなかったかと心配しましたが、お富の方には聞えなかったようです。 直中には流れ星が、この男の子の何かはかり知れない不吉な運命を、表わしているように感じられたのです。 だからお富の方に、そのことを悟られまいとして、声をのんだのです。 どえらいことをやりそうな子供、そして何かわけのわからない不吉な運命を背負った子供、それがいま生まれてきた子供なんだ、と直中は自分の心の中だけで繰返しました。 男の子の誕生にわきたつ喜びに包まれて、槻御殿の夜はふけてゆきました。 直中だけは喜びと、何かしらわけのわからない不安のいりまじった複雑な気持ちで、その夜を過ごしました。 「大殿さまの可愛がりようは、まあ何ということでしょう」 「年とってのお子さまほど、可愛いといいますからね」 家臣たちは、鉄之介を可愛がる直中の話題でもちきりでした。 直中は流れ星の運命を背負って生まれてきた男の子に、強く生きるようにという親心で、鉄之介と名づけました。 「さすがは彦根御前さまのお子さまです。 それにつけても、鉄之介さまの知恵の付き方の早いこと」 「大人の言うことも、すぐ飲込んでしまわれる。 」 「うっかりしたことは 言えませんぞ」 「すえおそろしい方です。 お名前のように、鉄の心をお持ちになられるのでしょう。 」 「殿さまを上まわるお人柄になられるかもしれません。 」 「シーッ、そんなことを口外してはなりません。 なんといっても殿さまはご正室のお子さまではありませんか」 口さがない家臣たちの間で鉄之介は話題の中心でした。 彦根藩第十二代の藩主となった直亮 (なおあき)は直中 (なおなか)の正室お文の方の子でした。 隠居した直中のあとをうけて、立派な家柄をほこる彦根藩主となったのですが、子供がありません。 そこでいずれ世継をきめなければなねませんが、直中は十一人めの男の子直元 (なおもと)を考えていました。 直元の母親は彦根御前のお富の方でした。 従って直元は、鉄之介と血のつながった兄にあたります。 遠慮のない家臣のびそひそ話に。 、 「鉄之介さまはお兄さまの直元さまより、お利口そうです」 「彦根藩をお継ぎになるのはいずれは直元さまでしょうが、鉄之介さまの方が名君になられそうです。 」 ななどという声もきかれました。 槻御殿でまだ幼い鉄之介の評判がよかったのは、お富の方の愛情がもっぱら鉄之介に注がれていたことにもよります。 物心ついた鉄之介が人生で初めての悲しい体験をしたのは、美しい母お富の方が五歳のとき、たちの悪い風邪をこじらせて急死したことでした。 お富の方はまだ三十五歳の女ざかりでした。 彦根御前の死で槻御殿のはなやかな空気はしぼんでしまいました。 鉄之介にはまだ本当に母の死というものの実感が湧いてきませんでした。 しかし父の直中の涙を見て、子供心にもおぼろげながら、死というものの悲しさを知りました。 五十五歳の直中はまだ老い先が短いというほどではありません。 しかし愛していたお富の方の突然の死でがっかりしてしまいました。 急に全身が力が抜けたようになってしまったのです。 お富の方の亡きがらは佐和山の麓にある竜潭寺 (りゅうたんじ)の境内で火葬にされました。 直中は身分のちがうお富の方のお葬式に参列することができません。 そこで槻御殿の窓からよく見える佐和山の麓の竜潭寺を葬儀の場所にえらんだのです。 お富の方によせる最後の心使いでした。 色づいた佐和山の木々のあいだから、ゆっくりと火葬の煙が立ちのぼってゆきました。 お富の方はもうこの世にはいない、そう思うと直中ははらはらと涙をこぼしました。 秋空にただよう煙が秋のすんだ日ざしのなかで、いろいろの形をとっては消えてゆきます。 それを見ていた直中は、ふと鉄之介が生まれたときの流れ星を思い出しました。 「かわいそうな鉄之介………」 直中はまだ甘えたいさかりに、美しい母をなくした鉄之介を憐れに思いました。 母親の分まで自分が鉄之介を可愛がってやろうと決心しました。 文政二年 (一八一九)のことでした。 あくる年、文政三年 (一八二〇)三月三日。 桃の節句の日に、直中の十五人めの男の子が生まれました。 もう子供はできないと思っていた直中の最後の子供です。 男の子は直恭 (なおゆき)と名づけられました。 直恭は鉄之介とは腹違いの弟です。 母親はなくなった彦根御前ほどの美女ではありませんでした。 家柄も彦根御前とはくらべものになりませんでした。 鉄之介は弟ができて急に大人びたように感じられました。 弟の直恭には、母親がいるのに自分には母親がいない。 子供心にもそんな気持が、鉄之介を大人びさせたものでしょう。 召使いと一緒に玄宮園で遊びながらき鉄之介は 可愛がってくれた母のお富の方の面影を追いました。 「母上………」 鉄之介は心のなかで母を呼びました。 母親のない不憫な鉄之介を、目のなかに入れても痛くないように直中は可愛がりました。 「親がなくても子は育つ」 直中は鼻すじのとおった鉄之介の面差しに、美しかった彦根御前の生き写しを見ました。 鉄之介はこうして、直中に可愛がられながらすくすくと成長しました。 「鉄のように強くなれ」 直中が名づけたとおり、鉄之介は強く育ちました。 めったに泣きません。 喧嘩をして相手を負かすことはあっても、負けることはありませんでした。 この鉄之介が井伊直弼の子供のときの名前です。 お富の方の三番めの子でしたから鉄三郎とも呼ばれました。 2 文武 (ぶんぶ)両道 直中は馬術が好きでした。 直弼は馬に乗る父の勇ましい姿が好きでした。 おっかなびっくりでしたが、父に抱かれて馬の背に乗せてもらいました。 「武門に生まれたからには、武術のたしなみがなければならぬ」 直中はそう言ってまだ幼い直弼を、よく馬場に連れてゆきました。 直中はまた直弼をよく射的場に連れてゆきました。 直中は銃術で、一貫流 (いっかんりゅう)と呼ばれる一派をたてるほどの腕前でした。 「この銃をもってみなさい。 」 直中はほほえみながら、小銃を直弼に渡しました。 でも子供の直弼には重くて持上がりませんでした。 それでも直弼は顔を真赤にして、小銃を持上げようとしました。 「よし、よし、無理をするな」 直中は、直弼から取上げた小銃で、射的場 (しゃてきじょう)の的 (まと)を狙いました。 磨かれた小銃の銃身の重い感じが、まだ赤い顔をしている直弼の腕に残っています。 「ズドーン!」 射的場の空気をふるわせて発射された弾が、的をいぬきました。 「どうだ、命中したろう。 」 直中は満足そうに、わが子の顔をのぞきこみました。 直弼はその目の光に、母のもっていない父の愛情を感じました。 直弼は男の子に生まれたことを、よかったと思いました。 「父上、もう一度持たせてください」 直弼は父の直中にせがんで、小銃の銃身に手を伸ばしました。 顔を真赤にして直弼は力んでみましたが、やはり小銃は持ち上がりませんでした。 「よいしょ」 父は笑っていました。 「よいしょ」 直弼がいくら力んでも、とうとう小銃は持ち上がりませんでした。 「今に軽々と持てるようになる」 小銃は肩幅のがっちりした父の手に取り戻されました。 直中の頭髪にはめっきり白髪がふえていました。 しかし直弼は父の幅広い肩を、頼もしく見上げてにっこりしました。 父と一緒にいることの安心感が、清水のように吹き出してきました。 父は額にうっすらと汗をかき、こめかみの血管がふくれていました。 彦根藩の藩校は稽古館 (けいこかん)と呼ばれました。 直中が寛政 (かんせい)十一年 (一七九九)七月に創立したものです。 儒学 (じゅがく=中国の学問)と国学を重んじておりました。 儒学を縦糸とするならば、国学は横糸でした。 儒学の有名な学者には沢村琴所 (きんしょ)がおりました。 藩校を創立するときに力をつくした人に僧海量 (かいりょう)がおりました。 海量は儒学にくわしいぽかりでなく、国学者としてもすぐれていました。 有名な国学者である賀茂真淵 (かものまびち:一六九七〜一七六九)の門人でした。 賀茂真淵の門人で、たいそうすぐれた国学者であった本居宣長 (もとおりのりなが:一七三〇〜一八〇一)が、彦根にやってきたことがありました。 その学風をしたって彦根藩の家老をはじめ十名が、本居宣長の門人になりました。 村田泰足 (やすたり)や岡村教邦 (のりくに)もそのときに門人になった人たちです。 この二人は直弼の先生となって教えることになりました。 本居宣長は和歌にもすぐれておりました。 その影響で弟子たちも和歌をよみ、風雅 (ふうが)の道にいそしむことになりました。 そして直弼は村田泰足や岡村教邦について和歌を学びました。 とにかく直弼は勉強ずきでした。 頭がよくものおぼえが抜群であったのは親ゆずりでしょう。 なくなった彦根御前は美人であったばかりでなく、頭のきれる才知にたけだ女性で、いまはやりの言葉でいえば才女でした。 直中と二十歳ちかく年が違っていたのですが、名君の直中も一目おいていたほどです。 「お富の方が生きていたら………」 直中が時々愚痴のようにもらすのは、頭のよい直弼が母親に似ているところからくる、素直な気持ちの表われです。 一を聞いて十を悟る直弼を見ていると、お富の方が生きていて育てるなら、直弼がもっと賢くなるだろうという親の繰り言でした。 五歳のときに死んだ母親ですから、直弼の記憶の中に生きている母親は乳房をくわえたことも、しっかりとは思い出せない、おぼろげな面影です。 あるとき直中は、直弼が一人でじっと母の形見の手鏡を眺めているのを目にとめました。 手鏡は余り大きなものではありません。 しかし鏡の周りに落ち着いた飾りのある、形のよいものでした。 部屋のなかで母の残した鏡をじっと見つめている直弼の姿を見かけた直中は、気づかれないようにその場を去りました。 「母にあやかれ」 直中はわが子を励ますように、そっとつぶやきました。 声にならない言葉でした。 直弼の部屋にあった母の形見は手鏡だけでした。 直中はその手鏡が、直弼の勉強机の引出の奥に、しまわれているのを知っていました。 「頭のよい子だが、体もきたえよう。 」 直中は目をかけている直弼が、文武両道の達人になることを望んでいました。 頭のよいのは親ゆずりだとして、母のように若死にしては困ると思いました。 文政八年 (一八二五)四月四日、藩主の直亮 (なおあき)は直元 (なおもと)を養子にしました。 直亮に子供がないことは直亮ばかりでなく、直中も困ったことだと思っていました。 直亮にもしものことがあったら、彦根藩三十五万石はどうなるか、それが心配であったのです。 徳川幕府は長いあいだ鎖国をして、外国との交通を絶ちきっていました。 そのため島国の日本は太平の眠りをむさぼることができたのです。 しかし東海の島国日本も、いつまでも安眠をむさぼっていられない形勢になってきました。 前年の文政七年 (一八二四)には、五月にイギリスの捕鯨船が日本にやってきて、その船員が常陸 (ひたち=茨城県)の大津浜に上陸しました。 水や焚き木がほしいということでした。 悪いことはしませんでしたが、異人がやってきたというので、大騒ぎになりました。 七月にはやはりイギリスの捕鯨船が、薩摩の宝島にやってきました。 鉄砲を射ち、牛をぬすんでゆきました。 これも、大騒ぎになりました。 うかうかしていると外国人が、軍艦や船にのってやってきて、どんなことをするかわからないぞ、そんな不安がきざしたのです。 水や焚き木や食べ物が欲しいというだけならよいのですが、青い目をした背の高い異人の洋服は普段、見なれないものでした。 そのうえ持っている銃が、いつ火を噴くかわかりません。 女や子供が、さらわれるかもしれないのです。 悪くすると、日本が占領されてしまうかもしれません。 元寇 (げんこう)のあった時 (一二八一)には神風がふいて、襲ってきた艦船はみな沈没してしまいました。 しかし長い鎖国の間に、ロシアやイギリスの船が日本にやってきて、通商を求めたり侵入をはかったことがありました。 それらは大事件にはなりませんでしたが、奉行が責任をとって自殺したこともあります。 不都合な事件がたびかさなると、世の中が騒がしくなってきました。 徳川幕府は国内がいたずらに騒ぐのを恐れて「異国船打払令」を出しました。 外国の船がやってきたら、打ち払えという命令です。 いまから考えるとずいぶん乱暴な命令のようですが、そうしないと国内が治まらなかったのです。 文政八年の二月のことでした。 海に面していていつ外国船がやってくるかわからない藩では、沿岸の護りを堅めました。 異人船がやってきたら皆うち沈めてしまえとばかり、大いに士気が上りました。 彦根藩は海に面していません。 ですから異国船打払令は直接には関係がありません。 しかし幕府のこの命令の持っている重大な意味は、直中にも直亮 (なおあき)にもよくわかりました。 「大変なことになった」 隠居の身分の気楽な直中も、時代が変ってきたことをひしひしと感じました。 「うかうかしてはいられないぞ。 当年とって三十二歳、男ざかりの藩主直亮も、時代の動きをすばやく感じとりました。 江戸の水は直接、ロンドンにつながっていることを、直亮はよく知っていました。 「父上、直元を養子に迎えたいと思います」 直亮は自分の考えを直中に伝えて了解を求めました。 「そなたに、子がないからのう」 子供のない直亮 (なおあき)は前から直元を養子にすることを考えていたのですが、異国船打払令が出たことで心のふんぎりがついたのです。 直亮と直中は多くを話さなくても、胸のうちは通じていました。 「直元はお富の方に似て頭がよい。 じゃが体は余り丈夫でない。 体をきたえなならん」 直元は直弼と六つちがいです。 家臣の間では六つ年下の直弼のほうが、同じ彦根御前の子供であっても人物だと見られていました。 しかし、ものには順序というものがあります。 直亮も直中も、そのことを考えたのです。 十五人もいた直中の男の子のうち生きている者で井伊家に残っていたのは、藩主の直亮のほかには、直元 (なおもと)・直弼 (なおすけ)・直恭 (なおゆき)の三人だけでした。 そのほかの男の子たちは他家へ養子にいって一城のあるじとなったり、彦根藩の家老の家柄をついで重臣となったりしていました。 直元と直弼は直中が愛したお富の方の子ですから、直亮が腹違いの弟を自分の養子にする場合に、六歳年長の直元をえらんだのは自然のなりゆきです。 末っ子の直恭は、まだ六つの子供でしたから、直中の念頭にはありませんでした。 井伊家では藩主になるもの以外の男の子はよその家に養子にいくか、または家臣に養われてその家を継ぐことになっていました。 そうならない場合にはわずかな俸禄 (ほうろく)をあたえられて、貧乏生活に耐えなければなりませんでした。 藩主や藩主の後継にもし万一のことがあったら、井伊家をついで殿さまにならなければならないわけです。 そういう非常のときに井伊家を継ぐものは貧乏生活に耐えて、人間を鍛えられた人物であった方がよいわけです。 こういう仕組みをつくったのは井伊家第二代の直孝 (なおたか)でした。 直孝は井伊家の基礎をつくった名君です。 自分が側室の子であったため、本来なら井伊家の第二代を継ぐはずではなかったのです。 ところが兄が体が弱かったため後継になったのです。 直孝がきめた井伊家の世継ぎの仕組みは、自分の体験にもとづいて井伊家の発展を考えたためでした。 直中と直亮がとった方法は、この井伊家のしきたりを守ったものでした。 「流れ星。 」 直中は直元より体の丈夫な直弼を、直亮の養子に考えたこともありました。 しかし直弼が生まれたときの、夜空にきらめいて消えていった流れ星の思い出が、それをためらわせました。 しかも同じ母の子で、六歳の兄である直元のほうが、世間の常識からは受入れられるでしょう。 「ものには順序というものがある。 」 直中は自分に言い聞かせて、直亮の言葉に賛成しました。 こうして直元が直亮の養子になったのです。 直亮に万一のことがあれば、直元が直亮のあとをうけて彦根藩三十五万石の殿さまになることがきまりました。 器量もよく文武 (ぶんぶ)両道にもすぐれた直弼は、人生の別れ道の最初で、裏道を歩くことになりました。 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