織田彦五郎 家系図。 織田信長が天下統一事業に成功した理由!統一までの流れを年表で解説

戸田家

織田彦五郎 家系図

詳細は「」を参照 織田氏の発祥の地はであり、その荘官の立場にあったという。 織田氏と思われる人物の史料上の初見は、に残された明徳4年(1393年)六月十七日付・置文であるとされる。 応永8年(1401年)には、織田名字を使用する「」なる人物が初めて現れ、彼は管領の家臣として重要な役割を果たしていた。 その翌年にはが尾張守護代に任じられている。 尾張に勢力を移した織田家では、岩倉を本拠とする伊勢守家と清洲を本拠とする大和守家に分裂し、各々が守護代として尾張半国を治めた。 そして、後者の大和守家の分家で、家の一つである弾正忠家こそが、信長の家系である。 信長の子孫としては、信忠の子である三法師()が、形式上、織田家の家督を継いだ。 秀信は豊臣政権下で岐阜で13万石程度の領地を持ったが、関ヶ原合戦の結果、所領を没収されてしまう。 秀信は数年後に病を得て世を去り、ここに嫡流は絶えることとなる。 一方、次男の織田信雄は豊臣政権下で所領を失ったものの、後、大和宇陀郡などに五万石を与えられた。 信雄の子孫が、柏原藩、高畠藩、天童藩といった小規模な藩の藩主となり、江戸時代を通じて大名として続いている。 (または)--- 織田信長 兄弟 兄弟のうち、秀俊(信時)および秀孝の出生順については議論がある。 江戸時代の諸系図類では秀俊は、信秀の六男となっており、信長の弟とされる。 しかし、谷口克広によれば、『信長公記』の記述に基づく限り、秀俊は信秀の次男、すなわち信長の兄である。 同様に諸系図類では秀孝を信包の弟であるとするが、秀孝は信包の兄であるとも考えられる。 (長男・嫡男)• (二男、養子)• (三男、養子)• (四男、養子)• (五男、・養子のち離縁)• (六男、祖父と同名)• (七男)• (八男)• (九男)• (十男)• (十一男)• (庶長子 ) 娘 信長の娘については、事跡の詳細が不明な者がほとんどである。 その上、『』では娘が6人となっているのに対して、より後年の『』では12人となっていたりと、系図によって娘の人数も一定しない。 渡辺江美子によれば、『寛永諸家系図伝』はおおよそ正しく長幼の順に娘を挙げているものの、法華寺本・坪内本の『織田系図』にある通り、長女は松平信康室ではなく蒲生氏郷室を長女とするのが正しいと推定される。 また、『寛永諸家系図伝』に載らない娘について、水野忠胤室は夫の不祥事のために意図的に省かれたと思われ、万里小路充房室・徳大寺実久室の2人は、公家と婚姻したためか織田信孝扶養であったためかのいずれかの理由で見落とされたと考えられる。 余語正勝については不明だが、兄弟の余語勝久(勝直)が信長に仕えていたことから、正勝も信長の家臣だったと考えられる。 天正10年9月11日、夫妻がで百ケ日法要を挙行したときの戒名。 清玉上人命名の流れをくむもの。 詳細はを参照。 詳細はを参照。 詳細はを参照。 詳細はを参照。 詳細はを参照。 詳細はを参照。 異母兄としてがおり 、信広の同母弟・秀俊は系図上は信長より後に生まれたこととなっているものの、信長より先に生まれた可能性も否定しがたい。 これらは庶流の扱いとなる。 「」も参照• の説によれば、道三が名跡を継承した美濃斎藤氏は室町時代の公家であるの妻(南向)を輩出し、その孫にあたる娘が斎藤氏の(仲介)で尾張の織田兵庫頭の室になったことで、甘露寺家を介して両家が縁戚になったことが確認され(『』文明15年9月17日条・明応4年4月16日条・21日条)、斎藤氏と織田氏の婚姻には伝統的背景があると解される。 この信秀の死没については、その時期にいくつかの説があったものの、2011年現在は天文21年とするのが定説となっている。 織田信秀の発給文書の終見は天正19年(1550年)11月朔日付の祖父江金法師(津島郷士)宛の跡職安堵状で、12月になると代わって信長が安堵状を出すようになるため(同年12月23日付笠寺如法院座主宛別当職安堵状)、天文19年末の段階で信秀が病床にあって信長への事実上の代替わりが行われていたとみられる。 『信長公記』には、信秀の葬儀において祭壇にを投げつけたという逸話が記録されている。 信長が上総介を名乗った理由は、今川氏の代々の当主が上総介を称したことを意識したとも考えられる。 信長が上総守を称したのはごく短期間であるものの 、これについても今川氏の称する上総介よりも「上総守」が上位であると信長が考えたのではないかと推測する説もある• 一般に「信行」として知られているが、同時代史料で確認できる名前は、「信勝」あるいは「達成」・「信成」である。 以降、本文では「信勝」で統一。 これは諌死であったとも、平手氏と信長の確執のためともされる。 通説では天文23年7月12日に斯波義統殺害が行われたとされてきたが、『定光寺年代記』の記述によれば、天文22年の7月12日が正しいと考えられるという。 かつての通説では弘治元年の出来事とされてきたが、天文23年が正しいと考えられる。 このとき自害した守護代・織田彦五郎については史料から実名を確定できない。 下村信博は、この守護代について単に「織田彦五郎」、あるいは「織田彦五郎信友」と記載している。 一方、柴裕之は、彦五郎について、文書に残る「大和守勝秀」と同一人物だと比定している。 なお、信光と確執のあった林秀貞が信光暗殺に関与していたという説もある。 『信長公記』では河尻と青貝という2人の家臣が、『フロイス日本史』では信長が直接殺したことになっている。 『信長公記』によれば斎藤義龍がこの時、信長を謀殺せんと京へ刺客を放つも、織田方の丹羽兵蔵がこれを看破したという事件があったという。 天野は同年に斎藤義龍と長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛しているのも同様の趣旨とみている)。 池上裕子は、このときに今川氏が3万人以上の軍勢を動員できたとは考え難く、多く見積もっても2万5千人程度しか動員していないであろうと述べる。 幸若舞の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。 そのため、映像作品などでは 謡曲の敦盛で代用されていた。 しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている(詳細はを参照)。 この戦いにおける信長の勝因は、1980年頃までは奇襲作戦の成功にあるとされていた。 その後、『信長公記』の記述をもとに、信長は奇襲ではなく、正面攻撃を行ったとする藤本正行の説が広く知られるようになった。 しかし、2006年には『甲陽軍鑑』の記述をもとにが奇襲説を再評価し、藤本正行とのあいだで論争が行われている。 松平氏の離反の時期については、桶狭間の戦いからしばらくは松平氏と信長の戦いが継続していたとするのが通説であった。 しかし、研究の進展によって、桶狭間の戦い直後に松平氏は今川氏を裏切ったとする見解も有力となっている。 その一方で、松平元康(徳川家康)の岡崎城帰還は信長による三河侵攻を警戒する今川氏真の方針に沿うものであったが、をきっかけに氏真の方針が対織田戦から対上杉戦(北条氏救援)に変化したことが松平氏離反のきっかけとなったとする説もある。 このときは、はじめ、信長は突然、居城と家臣の屋敷を二宮山に移すと宣言していたという。 唐突な命令で、しかも山深い山間部への移転であったため、大半の家臣は不満を抱いたが、信長は家臣の屋敷割も次々と決めていってしまった。 だがそれから数日後、信長は家臣に改めて居城をに移すと宣言した。 小牧山なら二宮山ほど遠くなく、麓に川が流れていて物も運びやすかったため、家臣団は大喜びして賛意を示したという。 そもそも当時は犬山城のと対立していたため、犬山に近い小牧山にも戦略上の反対意見があったが、信長は二段階の発布を行うことで、「二宮山よりはマシ」と家中の小牧山反対派の意見を巧みに封じたと伝えられる(『信長公記』首巻)。 犬山落城の時期は永禄7年とするのが通説であったが、横山住英が新出史料をもとに永禄8年のことであると論じており 、柴裕之もこれを支持している。 なお、信長は、道三の近親のを取り立て、の養子として主に命じ、領地と家臣団()を与え、道三亡き後の斎藤家跡取りとしたとの考察がある。 この人物は、正式な美濃斎藤家として織田家内でも親族として重きをなす。 正室の姉であるがとなり二代目後継者付き(重臣)ともなっている。 この際、義継らはの擁立を図ったとも言われるが、実際には、義継らにその意図はなかったと考えられる。 義栄擁立を計画したのは、阿波三好家のらであった。 浅井長政とお市の婚姻も六角氏や幕臣のらによる構想とする説もある。 信長が上洛の兵を起こしたところ、斎藤龍興が離反して道を塞いだために上洛を断念して撤退したという内容の文書が室町幕府の幕臣であったの子孫の家から発見されている(村井祐樹「幻の信長上洛作戦」『古文書研究』第78号、2014年)。 稲葉山城陥落は永禄10年のことであるとする説が有力だが、永禄7年のことであるとする見解もあり、研究者のあいだで議論となっているという。 全くの新地名の考案ではなく、木曾川の北(陽)にあることからの美称として岐陽などと並んで以前から一部の学僧・禅僧の間では使われていた。 それを信長が一般化させたものである。 これらは、およびその添状である万里小路惟任によって伝えられた。 ただし、嫡流は別にあり、嫡流の・は信長に庇護されたとする異説もある。 のちに、義昭はにも足利家の桐紋を与えている。 『信長公記』によれば、当時、岐阜からまでは3日はかかったという。 また、出発前において、が荷物の重さで言い争っているのを見て、馬から下りて自分で荷物の重さをチェックしたという逸話がある(『信長公記』巻二 )。 このころ、という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わったという。 この善住坊は、元年(1573年)に捕らえられた。 信長は善住坊の身体を土に埋め、切れ味の悪い竹製ので、長期間激痛を与え続けした(巻六) )。 の記した『』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。 我は二度と望み無し」とまで言ったという。 ただし、堀新は実際に講和を申し出たのは朝倉側であるとし 、片山正彦は信長が有利な状況で義景との和睦の合意が成立しかけていたが、延暦寺が和睦に反対し続けたために勅命が必要になったとする。 久野雅司もこの柴の説を支持しており、さらに具体的に元亀3年12月に異見書が発給されたと推定している。 平井上総も柴の説を肯定的に取り上げている。 例えば、鴨川達夫『武田信玄と勝頼』 、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009 など。 ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている。 だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。 信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある。 これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力がからも認められていることを知った諸、特にからは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。 ちなみに『』では、降伏すると見せかけて伏兵を潜ませていた門徒衆が織田兵と一門衆を襲撃、多数を死亡させたので、信長は残存の門徒衆を全員焼き殺したと記述している。 この際の火縄銃の数については従来、3,000挺であるとされてきたが、が『信長公記』の自筆本の検討をもとに、1,000挺程度が正しいとする説を提唱したことにより、通説には疑問が持たれるようになった。 しかし、が『信長公記』の系統研究を通してやはり3,000挺が正しいと主張しており、論争となっている。 この鉄砲部隊がいわゆる「三段撃ち」(部隊を3隊に分け、輪番で射撃させることで、火縄銃を連射可能とする手法)についても、実在を否定する見解が有力であったが、この点についても連続射撃を行う試みはあったとする説が提唱され、論争となっている。 長屋隆幸によれば、こうした論争の原因は、信頼できる一次史料が不足していることにあり、長篠の戦いの明確な実態は把握し難い。 美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の山中)では、「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。 岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれをたびたび見て哀れに思っていた。 天正3年6月の上洛の途上、信長は山中の人々を呼び集め、木綿20反を山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。 また、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と人々に要請した。 山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙したという(『信長公記』巻八 )。 このとき、信長はに対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。 このとき従軍したの所業を記した石版も残っている。 「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。 歴代の足利将軍は在任中に権大納言と右大将を兼ねて内大臣に進む慣例があったが、足利義晴(当時、権大納言のみ)は将軍職を義輝に譲って引退しようとしたため、や(義晴の義兄)の説得で右大将に任官した上で引き続き後見として幕政に関与した。 「安土」という地名は信長が命名したとも 、元々あった地名だとも言われる。 信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、3年()10月に信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏に共闘をもちかけている。 謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。 従来は、『信長公記』の記述を根拠に、村重が妻子を見捨ててひそかに有岡城から逃げ出したものだと考えられてきた。 しかし、天野忠幸によれば、乃美宗勝宛の村重の書状から、村重の尼崎城移動には馬廻を伴っており、反撃を期したものであったと考えられるという。 なお、によると、信長が御所を進上した当初の相手は誠仁親王ではなく、信長の猶子の邦慶親王の方だったようである。 『信長公記』では「関八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」と呼んでいる。 「いかやうにも、御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候」(『天正十年夏記』5月4日条、立花京子『信長権力と朝廷』掲載)• この時ののは「天正十年安土御献立」『』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される。 一般に信長は光秀の接待役の任を解いたと言われる。 しかし、金子拓によれば史料の誤読によるもので、実際には当初の予定通り、光秀は家康の接待を続けていたと考えられる。 本能寺の変の後には、などの公家は、信長の死について日記に冷淡にしか書き残していない。 そして、かえって即座に光秀の意を汲んだ行動をとろうともしており、信長の死を悲しんだ様子はほとんどないという。 19年()に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。 (ただし、最下段のみ)。 長暦(ただし、最下段のみグレゴリオ暦)。 天正2年に正四位下参議になったとされているのは、大納言任官の際に、いきなり高位高官に任じるというのは形式上問題があるため、さかのぼって任官されていたことにしたものである。 このとき織田家の家督・信忠は左近衛中将。 天皇 我詔旨 良万止、故右大臣正二位平朝臣信長 爾、詔 倍止勅命 乎衆聞食 止宣、策一人扶翼之功、敷萬邦鎭撫之德 須、允惟朝乃重臣、中興乃良士 奈利止、慮 志爾不量 爾天運相極 氐、性命空逝 奴、昨 者旌旗 乎輝東海 志、今 者晏駕 乎馳西雲 須、爰贈崇號 氐、照冥路 古止者、先王之令典、歷代之恆規 多利、故是以重 而太政大臣從一位 爾、上給 比賜 布天皇 我勅命 乎、遠聞食 止宣 — 天正十年十月九日、織田信長贈太政大臣従一位宣命「総見院文書」(訓読文) 天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと、故右大臣正二位平朝臣信長に詔(の)りたまへと勅命(のりたまふおほみこと)を衆(もろもろ)聞食(きこしめ)さへと宣(の)る、一人(ひとり)扶翼(ふよく)の功を策(はか)り、万邦鎮撫の徳を敷かす、允(まこと)に惟(これ)朝(みかど)の重臣、中興の良士なりと慮(おもほ)ししに、量(はか)らずに、天運相極(あひきはま)りて、性命(いのち)空しく逝(ゆ)きぬ、昨(むかし)は旌旗(はた)を東海に輝かし、今は晏駕(あんが)を西雲に馳(は)す、爰(ここ)に崇号を贈りて、冥路(めいろ)を照らすことは、先王の令典(れいてん)、歴代の恒規(こうき)たり、故是(かれここ)を以(も)て重ねて太政大臣従一位に上(のぼ)し給ひ賜ふ天皇が勅命(おほみこと)を遠(はろか)に聞食さへと宣る、天正10年(1582年)10月9日• 例えば、は、敵対する関戸吉信方を女性・子供も含めて虐殺した。 伊達政宗も同様の行為をしている。 なお、信長の残虐性については次の逸話も著名である。 天正9年()4月10日、信長はの参詣のためにを発った。 信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは、に参詣に行くなどと勝手に城を空けた。 ところが、信長は当日のうちに帰還。 侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、すべて成敗した。 また侍女たちに対する慈悲を願った桑実寺の長老も、やはり成敗されたという(『信長公記』巻十四 )。 フロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれており、こちらは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうちひとりかふたりは寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある。 『信長公記』では単に「首」とあるだけで頭蓋骨であったとは書かれていない。 尾ひれがついて家臣に飲ませたという話もあるが、俗書にしか伝わらない。 でかためてなどを塗ったもの。 滝川一益は近江出身とはいえ、天文年間という早い時期から信長に従っているため譜代と同一視できる。 その一例として、荒木村重は、毛利攻めの司令官の地位を羽柴秀吉に奪われたことに強い不満を持ち、そのため、信長との敵対に踏み切ることとなった。 中世における馬、鷹の献上行為には政治的な意味合いが込められていた。 室町期の馬、鷹の献上行為は武家領主が足利将軍から守護、探題職など支配権を公認された際の答礼として慣例化していた。 戦国期には上級領主権力と結びつき、領国支配の公認を得るための狙いを持った、極めて政治的色彩を帯びた行為であった。 特に鷹は英雄、武威、権力の表徴と認識されていた。 なお、この古文書は昭和初期までは信長の直筆と思われてきたが、右筆のの筆によるものである• なお、後の史料である編纂『亜相公御夜話』には、との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている• なお、大徳寺とその塔頭総見院には、共に束帯姿の信長像がある。 竹の紙を彩色画に使った例としては、他に高野山持明院蔵「紙本著色浅井長政像」(重要文化財)がある(毎日新聞2019年5月24日)。 信長がその生涯をかけて築いた政治権力は、研究上、一般に「織田政権」という用語で表される。 この「政権」という用語が使われる背景には、信長の権力が従来の戦国大名権力とは異質な面をもち、近世の統一権力の先駆けとなったという考え方がある。 歴史学者のは戦国大名権力との相違点を強調して「信長政権」という用語を使用しており、脇田修も一定の限界を指摘しつつも統一政権の先駆けとなった面を評価して「織田政権」という用語を使用している。 他方で、2000年にはが、信長の個性を重視するとともに、勝者の立場を前提とする「統一政権」という言葉を避けるべきという観点から、「織田政権」ではなく「信長権力」と表現している。 2010年の戦国史研究会開催のシンポジウムでは、「織田権力」という呼称が使われたが、これは信長の権力と従来の戦国大名権力との共通点を強調するという意味で用いられている。 そのほか、藤田達生は、信長の権力の在り方について、信長の実質的な将軍就任があったと見て、「安土幕府」と位置づけている。 このように、信長の権力の捉え方の多様化にともない、様々な呼称が使用されている。 平井上総によれば、これらは観点の違いによるものであり、いずれかの呼称が適切だというものではない。 以降、便宜上、「織田政権」という呼称を使用することとする。 武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、の七つの徳を実現するもの。 従来、元亀年間の信長と反信長勢力の争い(いわゆる元亀争乱)においては、将軍足利義昭こそが反信長勢力の盟主だと考えられてきた。 しかし、実際には三方ヶ原の戦いまでは、義昭は信長を支持していたということを柴裕之が明らかにしている。 そのため、信長が「天下人」となったのは、当初からの信長の政権構想によるものではなく、元亀争乱の結果による成り行きであったと考えられる。 のちに再録、2002年。 平井上総は協調説に、谷口克広は対立説に分類している。 厳密には、朝廷側は信長との協調を図ったが、信長が朝廷との協調を否定したという説として、藤井の説は分類されている。 後土御門天皇以降、正親町天皇まで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった。 までの中世の歴代天皇は譲位してないしはとなり、としてを敷くのが基本であった。 しかし天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転費用など莫大な経費を必要としていた。 つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった(羽柴秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由としてに昇っている)。 このため戦国時代になると朝廷も室町幕府も財政難に陥ったために譲位に必要な費用を工面できなかったため、たまたま後土御門天皇以降の天皇は三代続けて天皇在位のまま崩御したのであって、譲位はむしろ旧来の朝廷の慣行に復すると考えられていた。 研究上、かつては一向一揆との対決こそが近世統一権力を生み出した原動力であるとする説が有力であったが、現在では一向一揆との対立にそれほどの重要性はないとする見解が主流となっている。 1575年5月4日付けのフロイスの未刊書簡には、これらの道普請が尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江の8ヵ国で行われたことが書かれている(『完訳フロイス日本史 織田信長篇I 第34章』)。 このような道路は、征服された諸国に、都合がつくかぎり建設された。 (『完訳フロイス日本史 織田信長篇II』第55章• 「永禄十二年付上京宛て精銭追加条々」『増訂 織田信長文書の研究』所収。 池上裕子 など。 信長のこと。 正一位を贈られたのは現時点では信長が最後となっている• 、1987、『織田信長 中世最後の覇者』、中央公論社〈中公新書〉。 庶長子とされる信正は存在を疑問視されることも多い。 162. , p. 241. 241-242. 中日新聞. 2014年7月4日. の2015年5月8日時点におけるアーカイブ。 2015年5月9日閲覧。 2018年8月16日. 城びと. 公益財団法人日本城郭検定協会. 2018年9月2日時点のよりアーカイブ。 2018年9月2日閲覧。 6-9. 209-239. , p. 242. , p. , pp. 126-127. 242-243. , p. 203. , p. , p. , p. 117. 3-4. , p. , pp. 339-340. 355. 243-245. , pp. 245-246. , pp. 245-247. , pp. 5-6. , p. 247-249. 250-251. 27-28. , pp. 254-255. 254-256. , pp. 244-245. , pp. 253-254. , p. 29-33. , pp. 11-12. , pp. 16-19. 3-5. , pp. 73-111. 69-72. 丸島和洋「松平元康の岡崎城帰還」『戦国史研究』76号、2016年。 , p. , p. , p. 227. , p. 229. 20-23. 54-60. , pp. 70-72. , pp. 60-61. , pp. 66-67. 254-258. , p. , p. 258-264. 富加町史編集委員会「堂洞合戦 関・加治田合戦、関 落城」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、198 - 199頁。 「信長は中濃攻略後、要地要所であるを佐藤忠能の嫡男であるが戦死し、娘の姫もとなり、佐藤能信は病を持ちにてとなり、側室のは後継者ではない為、娘のをであるの正室とし、忠能の養子として二代目加治田城主に任命し、後継者とした。 兄のも加治田城となった。 「新知扶助分 百貫文(関市市平賀)弐捨五貫文(富加町川小牧)四捨八貫文(富加町大山)百四捨参貫文(関市肥田瀬)百貫文(富加町夕田)弐捨貫文(美濃加茂市加茂野町鷹之巣)弐百弐捨貫文(富加町加治田・絹丸)四百七捨貫文(関市吉田)五百弐捨捨貫文(武儀郡上之保村、武儀町)七捨貫文(益田郡金山町)六捨八貫文(加茂郡白川町坂之東)百五捨貫文(関市上下迫間)・二扶助都合弐千百八捨四貫文」• , pp. 20-25. , pp. 25-26. , p. 226. , p. 105. , pp. 56-60. , pp. 26-27. 263-264. 19-24. , p. , pp. 86-89. , p. , pp. 20-21. , p. 251-252. , p. , pp. 93-94. , pp. 39-40. , pp. 206-211. , pp. 36-37. , pp. 68-70. , pp. 70-72. 72-75. 40-41. , p. 67-69. , pp. 161-162. 70-72. 72-74. 74-75. , p. 143. 堀新「織田信長と勅命講和」(歴史学研究会 編『シリーズ歴史学の現在7 戦争と平和の中近世史』青木書店、2001年• 78-79. , pp. 174-177. 柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007• , p. 84-85. 86-87. 10-11. , pp. 150-152. , pp. 89-90d. , pp. 2-4. 36-37. , pp. 89-90. , pp. 178-180. , pp. 92-94. , pp. 125-126. , pp. 48-73. , pp. 26-28. 37-42. , p. 『御湯殿上日記』• 神田裕理「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年。 96-97. , pp. 129-131. 103. 105-108. , p. 播磨良紀「織田信長の長島一向一揆攻めと「根切」」、新行紀一編『戦国期の真宗と一向一揆』吉川弘文館、2010年所収。 108-109. 109-112. , pp. 93-94. 94-96. , pp. 106-107. 112. , pp. 185-186. 113. , pp. 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天正六年十月十一日 斎藤新五殿 信長印」• 「尚久。 寒天の分ご苦労の段とお察しする。 (中略)尚これから加勢のため毛利河内守につけて森勝蔵・坂井越中守・佐藤左衛門の諸将を派遣する。 いずれ重ねてお知らせする。 よい注進を待っている。 天正六年十月十二日 斎藤新五殿 信忠印」。 , p. 231-232• 「注進の趣委細聞き及んだ、そちらの戦場での見事な働き誠に心地よく、天下の評判も殊の外よろしい。 (中略)加勢に行った者とも相談し、急ぎ着陣せよ、神保越中守に後のことよく談合すること。 天正六年 信長印 斎藤新五殿」。 , p. 232• 軍記物にて「河田ら猿君野と云える平場へおびき出し、さんざんに勇闘し、即時に切り崩す。 (中略)恐懼して浜辺の士、多く斎藤に属するの間、人質を取堅め、神保安芸に預け置き、帰国せしに戦功を感美せらる。 」とある• 「越中進出は成功のうちの終わった。 これは新五一生のうちの最も華やかな戦歴であった 富加町史下巻 三 新五越中に進出 231-232頁」• , p. 161. 134-136. , pp. 164-165. 167-168. , pp. 169-170. , p. 169. , pp. 114-115. , p. 171. , pp. 172-173. 117-119. , pp. 118-121. 178. 136-138. 203-205. , pp. 205-211. , p. 243. 36-40. 183-184. 74-75. 182-183. , pp. 99-100. 184-186. , pp. 124-128. , p. 205• 206• 207• 140-141. , p. 208• 210• , pp. 210-211. 211• , p. 235. , p. , p. 260. 141-144. 208-211. 211-213. 193-194. 213-214. 156-158. , pp. 176-177. , pp. 177-179. , pp. 24-37. 177. , p. 313• 214-217. , p. 216. 219. , pp. , pp. 203-204. 山本雅和 2008年4月. リーフレット京都 No. 231. 京都市埋蔵文化財研究所・. 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信長の油断・光秀の殺意』(洋泉社、2010年)口絵参照、。 また、これに忠実な模本がに所蔵されている()。 - 2011年6月11日• 18-19. , p. , p. , p. 103-111. , p. 110. 29-31. 28-31. 19-20. 13-14. 14-29. , pp. 105-107. 『信長天下布武への道』吉川弘文館、2006年、pp. 174-176• , pp. 143、153 天下の「畿内」、「自己一体化」、「全国(沖縄・北海道を除く)」の3変容説を提起• 『明智光秀と斎藤利三』、2020年 p. 78-81、右大将任官での天下「自己一体化」、「列島日本」変容説• 『明智光秀と斎藤利三』、2020年 p. 80-81• , pp. 25-54. 22-23. 23-24. 67-69. 75-82. , pp. 107-108. , pp. 16-17. , pp. 55-57. 102-103. , pp. 114-116. 20-22. 96-99. , pp. 138-139. , p. 153. 『歴史評論』680号所収、松本和也「宣教師史料から見た日本王権論」• 61-62. , pp. 103-141. , pp. 96-116. 107-110. 174-175. , pp. 186-189. 104-107. 40-41. 192-208. , pp. 236-237. , pp. 96-97. 41-43. 100-102. 209-212. , pp. 212-221. , pp. 212-213. , pp. 221-222. , pp. 30-31. 232-235. 223-224. 224-225. , p. 136. , pp. 24-25. , pp. 250-252. , p. 113. 小学館・ジャパンナレッジ. 2018年10月4日閲覧。 , pp. 18-19. , p. 276. , p. 281. , p. 101-104. , pp. 104-106. , pp. 215-216. 264-265. 桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』 [ 要ページ番号]• 251-254. 294-295. 小学館・コトバンク. 2018年10月13日閲覧。 697-699. , pp. 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織田信友(織田彦五郎)

織田彦五郎 家系図

【目次】• 源流は清和源氏で、源義家の末裔です。 転換期は義家の子孫である足利義氏の代でした。 義氏の長子は足利長氏でしたが、義氏が執権である北条義時の娘と結婚し、足利泰氏が生まれたことで、家督は母親の家格の高い弟の泰氏が継承し、長氏は庶流となり、三河国の吉良荘を領有し吉良氏を名乗ります。 足利宗家の3代目・足利義氏の肖像画(鑁阿寺 蔵) ちなみにこの泰氏の子の足利頼氏が足利氏の家督を継ぎ、その三代後に室町幕府の初代将軍となる足利尊氏が登場するのです。 泰氏の他の子らは斯波氏や一色氏、渋川氏、石堂氏といった別家をたてました。 今川氏の略系図 吉良氏を名乗った長氏の長子は吉良満氏、次子は吉良国氏です。 吉良氏の家督は満氏が継承したため、国氏は今川荘の3村を領有し、今川氏を名乗りました。 大きな勢力とはとてもいえない状態ではありますが、こうして今川氏は誕生したのです。 御所(足利氏)が絶えれば吉良氏が継ぎ、吉良氏が絶えれば今川氏が将軍職を継ぐという言い伝えもこうした背景があったから生まれたのでしょう。 初代はなぜ今川範国なのか? しかし、今川氏の初代当主は国氏ではなく、孫にあたる今川範国となっています。 なぜでしょうか?• 今川国氏• 範国 初代• 範氏 2代• 泰範 3代• 範政 4代• 範忠 5代• 義忠 6代• 氏親 7代• 氏輝 8代• 義元 9代• 氏真 10代 国氏の後は今川基氏が家督を継いでいます。 基氏の弟らも関口氏、入野氏、木田氏という別家をたてました。 後に義元の命令で徳川家康が関口氏の娘を娶った際に、家康は今川氏の一門衆として扱われています。 基氏は今川荘を受け継ぎましたが、今川氏の名声を高めるのはその子らでした。 建武2(1335)年に北条時行が信濃国で挙兵し、建武新政府に反旗を翻します。 足利直義は鎌倉を追われ、京都から駆け付けた尊氏の軍勢と三河国で合流し、この地で時行の軍勢と激突しました。 小夜中山の戦いです。 基氏の長子、今川式部大輔頼国は尊氏の陣営に属して敵将である名越邦時を討ち取るなど活躍し、「今川に勇将あり」と名を轟かせますが、相模川の戦いで戦死。 基氏の次子、今川刑部少輔義満も同じくこの戦いで討ち死にしており、詳細の記録は残っていませんが三男も戦死したと考えられています。 今川氏の必死の働きによって尊氏は鎌倉の奪還に成功しました。 ただし基氏の子らが多数討ち死にしたため、家督は五男の今川五郎範国が継ぎます。 しかし後醍醐天皇は尊氏の追討を決め、新田義貞に命じました。 直義は三河国で義貞に対峙するも敗退。 その後に尊氏が迎撃し、入京しましたが、奥州の北畠氏が追撃したために九州まで落ち延びます。 態勢を整えた尊氏は光厳上皇を奉じて入京。 ここから南北朝時代を迎えますが、範国は今川氏の活躍を認められて遠江国の守護に任じられました。 今川氏は初めて守護となったのです。 そのため範国が初代当主とされています。 駿河国と遠江国の守護を兼任 建武4(1337)年には後醍醐天皇の要請を受けた北畠氏が鎌倉を攻略し、上洛を目指しました。 駿河国の石塔氏や遠江国の今川氏の軍勢も敗れて美濃国まで後退しています。 尊氏は美濃国の青野原の戦いで北畠氏の勢いをそらせることに成功しました。 このとき、後詰めとして活躍したのが範国です。 結果として抵抗できなかった石塔氏は駿河国守護を解任され、活躍した範国が駿河国の守護に補任されています。 今川氏が初めて駿河国を支配した瞬間です。 範国は駿河国と遠江国の守護を兼任しました。 ここから今川氏は駿府(府中)を本拠にしたと考えられています。 今川貞世と2代範氏・3代泰範 範国は長子の今川範氏ではなく、弟の今川貞世(了俊)に家督を継がせたかったようです。 しかし貞世は兄をたてて当主の座を引き受けませんでした。 『英雄百人一首』にみえる今川貞世(橋本貞秀 画) 観応の擾乱で活躍し「一人当千」と評価された2代目の範氏でしたが、 文和2(1353)年に亡くなっています。 ここでも貞世が今川氏の家督を継ぐよう家中の要請を受けたようですが、彼はあくまでも固辞しました。 そんな中、範氏の嫡男である今川氏家も亡くなってしまいますが、それでも貞世はあくまでも範国の血筋に家督を継がせようとし、範氏の子で建長寺に入っていた今川泰範を還俗させ、当主にしています。 この頃の貞世は、幕府の引付衆長官などを務め、その後は九州探題として活躍しますが、その権勢を警戒した将軍・足利義満により、 応永2年(1395年)には解任、その後は駿河半国守護を命じられて一時的に泰範と分割統治をしています。 3代泰範は大きな勢力を誇った山名氏討伐で活躍し、 応永7(1400)年義満から論功行賞で駿河国・遠江国の両守護の補任を受けています。 4代範政と5代範忠 鎌倉府との戦い 応永16(1409)年に泰範が没すると、今川範政が4代目当主となり、関東の争乱鎮圧で活躍します。 応永23(1416)年には関東管領の上杉禅浄が鎌倉府を攻め、鎌倉公方の足利持氏を追い出します。 将軍足利義持はすぐに範政に追討の命を下し、範政は越後国の上杉氏や信濃国の小笠原氏と共に禅浄を倒しました。 このとき範政は出羽国や安房国の一部の領土を恩賞として与えられましたが、持氏がこれを妨害。 こうして今川氏は、今度は鎌倉府と対立していきます。 しかしここで思わぬ事態が起こります。 後継者継嗣問題です。 範政が嫡男の範忠ではなく、末子の千代秋丸を世継ぎに希望したため、 永享4(1432)年に範忠は急遽仏門に入ることに。 翌年には範政が没し、さらにここに次子の今川弥三郎も家督相続を希望したため、大混乱に陥ります。 千代秋丸は扇谷上杉氏の娘であり、山名氏との結びつきがありました。 弥三郎も細川氏の支持を受けており、まさに前の代理戦争の様相です。 ただ、ここは将軍・足利義教が母方有縁ではなく、しっかりと駿河国を統治できる範忠を守護に決めたことで決着しました。 鎌倉府と室町幕府の対立が激しくなっており、室町幕府にとって防衛拠点である駿河国を信頼できる者に任させる必要があったのです。 「天下一苗字」の恩賞 承享の乱で鎌倉府と関東管領が争った際には、範忠は将軍の命により関東管領に味方し、持氏を倒します。 さらにその遺児を奉じて挙兵した下総国の結城氏の反乱も鎮めました。 その功績で今川氏は「天下一苗字(この世に一家だけの姓とする)」として、範忠の嫡流のみ今川氏を名乗ることが許されることになったと伝わっています。 6代義忠は討死も、7代氏親が戦国大名化を果たす。 6代目の義忠は新たに室町幕府より派遣された堀越公方を助け、鎌倉府を追われた古河公方と対立。 さらに 応仁元(1467)年から始まった全土を巻き込む覇権争い「応仁・文明の乱」でも将軍方の東軍に味方し、斯波氏に守護を奪われた遠江国奪還を目指します。 義忠は遠江国に侵攻して勢力を拡大しましたが、奇襲を受けて戦死。 これによりまたも今川氏は後継者争いが勃発するのです。 天文4(1535)年、今川勢は甲斐国へ侵攻しました。 相手はあの武田信玄の父親であるです。 このとき同時作戦を展開したのが相模国ので、信虎が今川勢と戦っている隙に甲斐国へ攻め込んでいます。 信虎はすかさず上杉朝興と連携し、北条氏の本拠地である小田原城を攻めさせたために北条勢はすぐに撤退したのですが、早雲の代から今川氏と北条氏が強い同盟関係を維持していたことを物語っています。 花倉の乱と武田氏との接近 しかし 天文5(1536)年に氏輝が急死、さらに弟の彦五郎(氏輝と同一人物という説もあります)も同じく謎の死を遂げたために、家督は氏親の五男である梅岳承芳(のちの)が受け継ぐことになりました。 義元も寿桂尼の子です。 兄に母親が違う玄広恵探がおり、この家督相続に異を唱えて花倉城で挙兵しましたが、味方するものは母方の福島氏ぐらいなものであっさりと滅ぼされています。 家督を継いだ義元は、大きく舵をきり、これまで敵対していた武田氏と結び、信虎の娘を室に迎えました。 氏輝らの急死や義元の家督相続に信虎が関与しているとも考えられています。 北条氏は当然のようにこの決定に怒り、駿河国へ侵攻しますが、北条氏としても周囲を敵に囲まれた状態に陥るため、最終的には今川氏、武田氏とも同盟を結び、 天文23(1554)年に「甲相駿三国同盟」が成立するのです。 おそらくこれは義元やその補佐役だった雪斎の思惑通りの展開だったのでしょう。 甲相駿三国同盟によって隣国との関係を強固なものにした義元は後背を気にすることなく万全の準備を整えて、 永禄3(1560)年上洛のために尾張国を攻めます。 ただし、油断した結果、信長の奇襲を受け、義元はで討ち死にするのです。 まとめ 足利氏の末裔であり、将軍家とも強い繋がりがあった今川氏。 家柄や勢力から考えても、義元が室町幕府の新しい将軍となってもおかしくはありませんでした。 もし、義元が油断することなく尾張国を制圧し、上洛していたら、戦国時代はまったく違うものになっていたに違いありません。 【参考文献】• 有光 友學『今川義元(人物叢書)』(吉川弘文館、2008年)• 小和田 哲男『駿河今川氏十代(中世武士選書25)』(戎光祥出版、2015年).

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織田信友(織田彦五郎)

織田彦五郎 家系図

発生 [ ] 尾張守護代である織田氏は元々は尾張守護でもある管領のの家臣であったが、における斯波氏の内紛に派生する混乱のため分裂しており、それぞれが主家の斯波氏を凌ぎ戦国大名化した。 において、清洲三奉行が仕える清洲織田氏(大和守家)はを本拠に守護斯波氏を奉じ尾張下4郡を支配下に治めており、もう一つの岩倉織田氏(伊勢守家)はを本拠とし尾張上4郡を治めていた。 清洲三奉行体制の成立時期については不明だが、が守護代の時期に、「織田家三奉行奉書」なる文書が残っており、少なくともそれ以前には成立していたと考えられる。 当時の尾張においては、守護のと(達勝の先代)が対立し、達定が自刃に追い込まれるという事件が発生しており、新守護代の達勝の下で新体制を構築する必要があったと推測できる。 三奉行の他に、清洲城には小守護代のがいた。 戦国時代初期の尾張の支配体制 [ ]• 『信長公記』によると、清洲織田氏が尾張の下四郡を治め、岩倉織田氏が尾張の上四郡を治めたとされるが、当初は嫡流であった岩倉織田氏の方が優勢であったとされる。 尾張守護代家• 清洲織田氏(大和守家) -----…-? 岩倉織田氏(伊勢守家) ----…-? -- 清洲三奉行家 [ ]• 因幡守家 -? --…-? -(信友? 藤左衛門家 -? -…--------• 弾正忠家 -? ----(-) 因幡守家 [ ] 因幡守家は、系譜ははっきりしないが早い段階で分かれた一族とされる。 初めて名が明らかになるのは、の際、奉行人として名を連ねた、らであった。 広貞という人物は広長の子であるとされ、織田家三奉行奉書において、文書に名を連ねるも、広長の子にあたるとされる。 最後の清洲織田氏当主の(彦五郎)は達勝の養子で別名といい、因幡守家出身とされることもある。 藤左衛門家 [ ] 藤左衛門家は、織田家三奉行奉書において名を連ねているが代表的な人物である。 良頼は弾正忠家の信定の岳父であり、良信と同世代の人物と推測される。 に名がみえるとの関係や藤左衛門家の系図にある(の子か)との関係は不明である(良縁と良頼が父子で、常寛は良頼と同一人物であるとも)。 藤左衛門家は信定に嫁いだ良頼の娘が没した後、一時達勝と共に弾正忠家と敵対するが、やがて弾正忠家に従うようになったらしく、やに参加している。 城下のを菩提寺とし、現在でも子孫の菩提寺となっている。 弾正忠家 [ ] 弾正忠家の元々の系譜は定かではないが、『』によれば、、当時の守護代であるの家臣に織田弾正なる人物がいたことが分かっており、年間の斯波家家老にも織田弾正忠とある(『』)。 その子孫がのちの清洲三奉行の一家である弾正忠家と推測されている。 弾正忠家ではじめて名が明らかになるのは初代であるが、において奉行職の一人を務めたことが伝わるのみである。 良信は『信長公記』にある西巌ではないかと推測されている。 また、清巌という法名をもつ主・の子(又は同一人物)と推測されることもある。 西巌の次代にあたる(月巌)はを中心にやを勢力下におくなど力をつけ、これ以降、弾正忠家は「 勝幡織田氏」とも称されるようになった。 織田家三奉行奉書は信定の文書の初見であるとされるが、その後信定が独自に発給した文書も存在している。 その子の(桃巌)の代には力をつけ戦国大名化し、主家に対抗するようになった。 信秀の代において、軍事面においては主家をしのいでいたものの、統治面においては守護・守護代に服従せざるを得なかった。 信秀の死後、織田弾正忠家の一族内部も含めた織田氏内部の抗争が再発するが、信秀の子の(泰巌)は一族の内紛を鎮め、守護代・清洲織田氏のを討ち、さらにもう一つの守護代・岩倉織田氏の・らを追放し、さらにその途上において守護のをも追放、その他反抗する織田氏一族もすべて滅亡・追放・自刃させ、尾張国統一を成し遂げている。 系図 [ ] 因幡守家 広長.

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