土御門の秋 現代語訳。 紫式部日記秋のけはひ品詞分解

土御門院(土御門天皇) 千人万首

土御門の秋 現代語訳

の第一皇子。 母は承明門院在子(の養女)。 大炊御門麗子を皇后とする。 贈皇太后土御門通子との間に覚子内親王(正親町院)・仁助法親王・静仁法親王・をもうけた。 建久九年 1198 正月十一日、四歳で立太子し、即日受禅。 三月三日、即位。 承元四年 1210 十一月二十五日、皇太弟に譲位。 この時十六歳。 承久三年 1221 の乱には関与せず、幕府からの咎めもなかったが、父後鳥羽院が隠岐へ、弟順徳院が佐渡へ流されるに際し、自らも配流されることを望んだ。 同年閏十一月、土佐に遷幸し、翌年幕府の意向により阿波に移る。 寛喜三年 1231 十月、出家。 法名は行源。 同月十一日(または十日)、阿波にて崩御。 三十七歳。 陵墓は京都府長岡京市金、金原陵。 徳島県鳴門市池谷に火葬塚がある。 新勅撰集などによれば内裏歌合を催したことがあったらしい。 建保四年 1216 三月成立の『土御門院御百首』には定家・家隆の合点、定家の評が付されている。 御製を集めた『土御門院御集』がある。 続後撰集初出。 勅撰入集百五十四首。。 3首 1首 3首 1首 3首 6首 計17首 春 百首歌よませ給うける中に、うぐひす 雪のうちに春はありとも告げなくにまづ知るものは鶯の声 (続後撰18) 【通釈】雪の降る中に春はあるとも告げないのに、真っ先に知るものは鶯の声である。 【補記】《雪の降る中、立春を迎えた》という状況設定をして、春告げ鳥としての鶯を詠む。 誰が教えるわけでもないのに、真っ先に鶯は鳴き始め、春を告げ知らせる。 鳥があたかも暦を知っているかのようだと訝しがりつつ、その不可思議を、季節の順行に叶った目出度いこととして受け止めている。 建保四年 1216 、堀川百首題によって詠作した百首歌。 【本歌】「古今集」 世の中の憂きもつらきも告げなくにまづ知る物は涙なりけり 「古今集」 雪のうちに春は来にけり鶯の氷れる涙今やとくらむ 名所柳を 舟つなぐ影も緑になりにけり 六田 むつだ の淀のたまのを柳 (風雅98) 【通釈】繋いだ舟の影も緑色になったのだった。 六田の淀の玉の緒柳よ。 激流として知られた吉野川が大きな淀みをなす一帯である。 和歌では柳の名所として詠まれることが多かった。 「たまのを」は初句「つなぐ」と縁語の関係にある。 【補記】春のうららかな陽射しを浴び、川辺の柳が水面に影を映している。 岸につないだ舟の影もまた、萌え出たばかりの柳の美しい緑色に染められている。 『土御門院御集』増補分に「名所春」の題で載る十首の一。 花の歌の中に 見わたせば松もまばらになりにけり遠山ざくら咲きにけらしも (続後撰71) 【通釈】遠くの山を見わたすと、 白く霞んだ雲のようなものに埋れて、松の緑もまばらになっている。 桜が咲いらしいなあ。 【補記】常緑の松と白い山桜の対比は、源俊頼の秀詠(下記参考歌)からインスピレーションを得たことが明らかである。 創意あふれ奇抜な俊頼詠に対し、こちらは大らかな帝王ぶりの歌。 建保四年、若き日の百首歌。 【参考歌】「詞花集」 白川のこずゑの空を見わたせば松こそ花のたえまなりけれ 夏 百敷の庭の橘おもひ出でてさらに昔をしのぶ袖かな (御集) 【通釈】大宮の庭の橘を思い出して、さらに過去へ遡る昔を思慕する袖の香であるよ。 上代、「ももしきの」で「大宮」にかかる枕詞として用いられたが、のち大宮そのものを指すようにもなった。 【補記】橘の香に昔を偲ぶとは、古今集の「五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」により定式化された趣向である。 都を離れた土地で嗅いだその花の香に「百敷の庭の橘」を思い出し、「さらに昔を」、おのれ一代の過去の追想には留まらない、宮廷の遥かな昔を偲ぶ、という。 百人一首にも採られたに似通うのは偶然だろうか。 『御集』増補分に「夏五首」として見える。 晩年の作であろうか。 続後拾遺集548には下句を「さらに昔のしのばるるかな」として採っている。 ここでは「山道」の意はない。 【補記】澄んだ秋の夜、ゆっくりとした時の進みがよく感じられる。 建保四年の百首歌。 玉葉集568では第四句「こゑするかたに」とある。 題しらず 秋の夜もややふけにけり山鳥のをろのはつをにかかる月かげ (続後撰377) 【通釈】秋の夜もようやく更けてきた。 お供えの初穂に月光がかかっている。 【補記】「山鳥のをろのはつを」は万葉集東歌に由来するが、古来難解句として知られる。 たとえば契冲は「山鳥の雄の最末尾」の意と解した(万葉代匠記)。 現在では「をろ」は「尾」に接尾語「ろ」が付いたもの、「はつを」は「初穂」(初物の穂)で、「山鳥のをろの」は「はつを」の導入句に過ぎず、要するに月への供物 くもつ としての初穂と解するのが有力になっているようで、これは納得できる説である。 土御門院の歌も、明月の夜が更けお供えの薄の初穂に月がかかった、との情景を詠んでいるのだろう。 もっとも、深山の林に眠る山鳥の垂れ尾に月がぶら下がっている景を思い描くのも面白い。 建保四年の百首歌。 【本歌】作者未詳「万葉集」巻十四東歌 山鳥のをろのはつをに鏡かけとなふべみこそなによそりけめ 題しらず ちりつもる紅葉に橋はうづもれて跡たえはつる秋のふるさと (続後撰434) 【通釈】散り積もった紅葉に橋は埋もれて、秋が去って行った跡もすっかり絶えてしまった古里よ。 【補記】『土御門院御集』によれば白氏文集の句「紅葉添愁正満階(紅葉愁ひを添へて正に階に満つ)」を題として詠んだ歌。 《季節が橋を渡って去る》と見る趣向は「暮れてゆく春やこれより過ぎつらん花散りつもる青柳の橋」(藤原頼宗『入道右大臣集』)など和歌にも先例が少なくない。 本作に言う「橋」は、秋から冬へと季節が渡る橋である。 その道は紅葉に埋もれて、足の踏み場もなくなっている。 「秋のふるさと」は新古今時代に流行った結句であるが、この歌では、擬人化された「秋」が住み慣れた里、の意も帯びる。 年月不明記の詠五十首和歌。 『土御門院御集』の配列によれば承久四年 1222 の作となり、遷幸地土佐で詠まれたことになる。 冬 冬の御歌の中に むら雲のたえまたえまに星見えてしぐれをはらふ庭の松風 (玉葉846) 【通釈】叢雲の絶え間絶え間に星が見えて、庭の松風は時雨を払うように吹いている。 【補記】時雨をもたらす叢雲の切れ目切れ目に、星の光がまたたく。 地上にはぱらぱらと雨が落ちているのだが、それも庭の松風に吹き払われて、星の眺めを邪魔しない。 新古今時代、「しぐれ」「まつ」などは暗喩的表現として用いられることが多かったが、この歌は純叙景歌として受け取ってよいように思われる。 京極派の歌風を先取りしている観あり。 承久四年 1222 正月の詠二十首倭歌、「四季雲」を詠んだ四首のうち秋。 しかし玉葉集は冬歌として採った。 【補記】後朝 きぬぎぬ は、共に一晩を過ごした恋人同士が明け方に別れること。 普通、男が女の家を去って行く、という形になる。 有明の月がその悲しみを演出する場合が多いが、この歌もその例に洩れない。 涙ながらに別れた後の帰り道、月の光があとを慕うように袖の涙に宿り続ける。 承久三年 1221 の百首和歌。 続後撰828では第四句を「わかるる袖に」とする。 旅の恋をよませ給うける わかれても幾有明をしのぶらむ契りて出でし古郷の月 (続千載1399) 【通釈】別れて後も、幾たび有明の月に面影を偲びつつ眺めることだろう。 それを見たら私を思い出してくれと約束して出発した、故郷の月よ。 【補記】これも承久三年の百首歌。 旅人の立場で、故郷に残してきた人への恋心を詠む。 旅立ちの朝は有明の月が出ていた。 以来、幾たび有明の月に恋人の面影を偲んだことだろう。 「同じ月を見るたびに、私のことを思い出してください。 私も月にあなたを偲びます」、そう約束して別れた、というのである。 良経に先蹤があるが、こちらは長旅における切ない慕情が滲む。 余情哀婉の作。 【本歌】「新古今集」 忘れじと契りて出でし面影は見ゆらむものを古郷の月 雪月花時最憶君 おもかげも絶えにし跡もうつり香も月雪花にのこるころかな (御集) 新 【通釈】あの人の面影も、通いが絶えてしまったあとに残されたものも、移り香も、月・雪・花につけ、まだ色濃く残っている頃であるよ。 【補記】承久四年 1222 、土佐での詠五十首和歌、恋。 和漢朗詠集にも採られて名高い白楽天の詩「寄殷協律」()の一句を題とする。 原詩の「君」は友人を指すが、掲出歌では恋人の意に転じた。 離れて行った男のなごりを季節の風物に感じている女の心を詠んだ歌。 【参考】「白氏文集」「和漢朗詠集」() 琴詩酒伴皆抛我 雪月花時最憶君(琴詩酒の伴皆我を抛ち 雪月花の時最も君を憶ふ) 雑 神祇の心をよませ給うける ひかりをば玉串の葉にやはらげて神の国ともさだめてしがな (続後撰532) 【通釈】光を榊の葉に和らげるように、仏が尊い光を和らげて神として顕れた国として、この日本を揺るぎなくしたいものだ。 【補記】「光をやはらげ」との言い方は中世の神祇歌・釈教歌に頻出する。 これは、仏が光(知恵の象徴)を和らげて、煩悩の塵に交わり衆生を救済する、とした「和光同塵」の考え方を敷衍し、本地垂迹 ほんじすいじゃく ・神仏同体をこのような言い方で現したものである。 「神の国」とは、仏が神として顕れた国、ということ。 御集増補分「木名十首」の一。 寄風述懐 吹く風の目に見ぬかたを都とてしのぶもくるし夕暮の空 (御集) 【通釈】吹く風が目に見えないように、目に見えない遥か彼方を都として偲びつつ、夕暮の空を眺めることの苦しさよ。 【補記】四国遷幸後の詠述懐十首和歌。 御集の巻頭に置かれている。 吹く風は目に見えぬ。 吹き去る彼方には都があるはずだが、ここからは望むべくもない。 そんな遥かな土地から、都を偲ぶ苦しさを詠む。 続古今集942では第四句「しのぶもかなし」とする。 勅撰集掲載に際しての配慮であろうが、改竄と言うしかない。 旅行のこころを 白雲をそらなるものと思ひしはまだ山こえぬ都なりけり (続古今943) 【通釈】雲を空にある、実体のないものと思い込んでいたのは、まだ山を越えたことがない、都にいた時のことであった。 【補記】白雲が空にあることは誰でも知っているが、実物を間近に眺めたことがなければ、それは「そらなるもの」、空虚な、それこそ「雲をつかむような」ものでしかあるまい。 ところで遠い旅に出ることになった人が、初めて高い山を越えた。 その時初めて白雲を実体あるものとして見ることとなった、という感慨である。 承久三年の百首和歌。 【本歌】「平中物語」 天の川そらなるものとききしかどわが目のまへの涙なりけり 百首歌よませ給うけるに、懐旧の心を 秋の色をおくりむかへて雲のうへになれにし月も物忘れすな (続後撰1203) 【通釈】秋の美しい光を幾度も送り迎えて、雲の上に馴染んだ月よ、おまえも昔のことを忘れないでくれ。 【補記】建保四年の百首歌。 「秋の色」は漢語「秋色」に由来し、もとは「秋の景色」の意になるが、ここでは明月の美しい光を言っている。 「雲のうへ」は宮廷を暗示し、内裏から眺め馴れた月に対して、「おまえとともに幾多の喜び悲しみを味わってきた。 そんな思いを、どうかおまえも忘れないでくれ」と訴えた歌。 四国遷幸の五年ほど前の作なのだが、その後の運命を予告しているかのようだ。 流された帝王たちの歌を多く採った藤原為家撰、巻十八雑下の巻頭に置かれている。 文集、草堂深鎖白雲間といふ心を 谷ふかき草の庵のさびしきは雲の戸ざしの明がたの空 (続後拾遺1064) 新 【通釈】谷深くにある草庵の暮らしの寂しいことは、雲に閉ざされて、なかなか明るくならない明け方の空である。 補記参照。 「あけ」はさらに「開け」の意を伴って「戸」の縁語になる。 【補記】承久四年 1222 、土佐での詠五十首和歌、雑。 山の峡では朝雲が滞ることが多いので、毎朝の明け方が寂しいのである。 詞書の「文集」は白氏文集を指すが、現在伝わる白氏文集に「草堂深鎖白雲間」の句は見えない。 『土御門院御集』の当該歌の詞書には「文集」の文字はなく、続後拾遺集の「文集」は編者が誤って付け加えたものであろう。 【他出】土御門院御集、拾遺風体集 題しらず うき世にはかかれとてこそ 生 む まれけめことわりしらぬわが涙かな (続古今1845) 【通釈】このように辛い目に遭えということで、この現世に生れて来たのだろう。 そう納得して苦難に堪えるべきなのに、分別もなくこぼれる我が涙だことよ。 【補記】承久三年の百首和歌。 『増鏡』では、四国遷幸の際、「道すがら雪かきくらし、風吹き荒れ、吹雪して来し方行く先も見えず、いとたへがたきに、御袖もいたく氷りてわりなきこと多かるに」この歌を詠んだ、としている。 【他出】土御門院御集、万代集、新時代不同歌合、増鏡、承久記(古活字本) 公開日:平成14年05月15日 最終更新日:平成21年12月24日.

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紫式部日記『秋のけはひ』現代語訳

土御門の秋 現代語訳

佐藤弘弥 奥州後三年記序 わが国の朝廷に文官と武官の二つの道があり、互いに助け合って政治を行ってきた。 仏教にも「顕教」と「密教」の両宗があり、それぞれの教えを護持している。 このことは優れた天子様の現れた明るい時代の大事業を発端として、神仏が姿を現したといえないこともないであろう。 わが国の神武天皇より五十六代に当たる清和天皇に御子貞純親王の六代目の子孫に伊予守源頼義殿が居られた。 さてその長男が陸奥守義家殿である。 通称八幡殿と言われた。 この八幡殿が、堀川院の御代である永保三年(1083)に、陸奥守として奥州に赴任された。 ここには、陸奥の奧六郡を領するようになった鎭守府将軍清原武則の孫である武貞(荒河太郎)の息子真衡が居て、財産の豊かさに驕り高ぶった行状に及んでいた。 そのため、一族ながら家来(郎従)と同じ立場に置かれてしまった秀武は、真衡に対し深い恨みを抱き、ついに合戦を仕掛けた。 その余波は奥羽各地に拡がって、ついに武衡家衡を攻めるようになり。 双方の大軍が力を尽くし「我こそは」と雌雄を決する有様となった。 戦いは各地で数え切れないほど起こった。 この間、大将軍陸奥守源義家殿の武徳と威勢は、上代に比べても勝るとも劣らないものがあった。 雪の中にあって人を暖める情けある心は、陽に和む気風を含み、雲の外に雁の気配を察知する智略は、天賦の才を潜めていた。 時には、自らの将兵について剛勇の者と臆病の者を分けて座に就かせ、計略をもって両方の者を激励した。 また時には凶徒が没落の最期を迎えた時、手のひらを差し出してその事を示した。 そのように、寛治五年(1092)十一月十日の夜、大敵は既に滅亡し、残党はことごとく討たれて地に伏していた。 その後、戦を鎮めたという書状(解状)を朝廷に送ったが、その天子様への奏上に天子様はたいそう感動された。 俗にこれを「八幡殿の後三年の軍」というのである。 歳月は、随分過ぎたけれども、その評判は朽ちることはないであろう。 源家の一流は広く世に拡がって、今に至っても、いよいよ新である。 古来の義家殿の美談について、その威徳を仰ぎ見ない者がいるだろうか。 世間の知るところ、時を越えて伝えたいと思う。 後漢の二十八将は、その形を凌雲壹に写すといわれる。 本朝の「賢聖障子(けんじょうしょうじ)」には、わが国の名士三十二人が、紫宸殿の母屋の北面に障子絵図となって飾られている。 だから今、この絵を描かせているところである。 このことの由来については、この画図を東塔南谷の衆議としてその功を終えたものである。 狂言や戯論の果てにできたものというものではけっしてない。 児童や幼い者が歴史について学ぶ心を奨励する。 時々窓の中を仰ぎ見てこの画図を開き、春の夜の寂しさを慰めとする。 故郷を遠く離れている時、これを取り出して。 風月の歌を吟ずる時に添えたいと思う。 その歌の背後に描かれた画図の精緻な麗しさは、丹精の彩色による永遠の花の春である。 表面に書かれた能筆の絶妙な姿は、古い金石の銘と比較してもそれに負けないものである。 図も書も共に為になるものであることは、老いも若きも同じように感じるはずのものであろう。 時に貞和三年(1344) 法印權大僧都 玄慧。 一谷の主人のご命令により大網の小序を記した次第である。 この人物は、荒河太郎武貞の息子にして鎭守府将軍武則の孫に当たる。 真衡の清原家は、元来、出羽国山北の住人であった。 この功によって武則の子孫は奥六郡の主となったものである。 以前には、安倍氏の貞任、宗任が先祖より受け継いだ奥六郡の主人であったが、真衡の威勢は、父祖の代にも増して高まっていて、奥州、出羽国内には、もはや肩を並べる者はいなかった。 真衡は、礼儀正しく、間違った行いをせず、院の命令を重く受け止めて、朝廷の威光を高めた。 これによって、奥羽国内は、穏やかで戦も納まっていた。 ところが真衡には、継ぐべき子がなかったので、海道小太郎成衡という者の子を養子とした。 次ぎに真衡は、歳若い成衡の妻を探した。 当国内の者は、一族も含めみな従者(家来)のような状態となっていたこともあり、真衡は隣国の常陸国の多気権守宗基といふ武者の娘に目を付けた。 この娘は頼義朝臣がその昔、安倍貞任を討とうとして、陸奥に下ってきた時、旅の仮の宿で宗基の娘に生ませた女子であった。 宗基は、この孫娘に傅(かしづ)くように大切に育てたのであった。 真衡は、この娘を迎えて養子成衡の妻とした。 新しい嫁を饗応しようと、奥羽の国内はもとより、常陸国の多くの郎等たちが、毎日毎日やってきた。 陸奥の習慣に、「地火鑪(ちかろ)」などというものがあった。 これにより、さまざまな食物を持ち込んで食したり、金銀や絹布、馬や鞍などを持ち運んで上納するのである。 2 吉彦秀武の不満 出羽国の住人に吉彦秀武(きみこのひでたけ)という者があった。 この男は、武則の母方の甥で婿でもあった。 むかし、頼義が貞任を攻めた時、武則は一族郎等率いて当国へやってきて、栗原郡の営ヶ岡(たむろがおか)において、頼義軍の各陣の将を定めて軍を整えた。 この時、秀武は三陣の頭(かしら)に任命された人物である。 ところが、武則の孫の真衡が一族の長となってその威徳が父祖を越えるものとなって、清原氏の一族の同胞の多くが従者(家来)となってしまった。 秀武も同じように家人として催促されて、この饗応の席にやってきたのである。 秀武は、この席で、朱色の盤に金をうず高く積んで、自ら目上に持ち、座にひざまづき、盤をそのまま頭上に掲げていた時、真衡のお側に仕える「五そうのきみ」という僧がいたのだが、この奈良と法師と秀武が囲碁の勝負に興じていて、やや時間が長くなり、老いた秀武は、疲れてきて、その座を保つのが苦しくなって、心に思ったことは「私は清原家の一族の者である。 めぐり合わせ優劣によって、まるで主従の振るまいをすることになった。 それでも老いの身を抱えて、庭にひざまづいているのを、しばらく無視され、情けなくなって、苦々しいことだと思い、ついに掲げていた金を庭に放り投げて、急に走り去って、門の外に出て、たくさん持参した飯や酒を、すべて従者に分けて、長櫃(ながびつ)などは、門の前にに捨てて、自ら大鎧を急ぎ着て、郎等どもにもみな武具を着けさせて、出羽国に逃亡して行ったのである。 3 後三年合戦の発端 真衡は、囲碁を打ち終えて、秀武を訪ねて見ると、家来から、秀武はこのようにして、退たということを聞いて、大いに怒り、たちまち、諸郡の兵を招集して秀武を攻めようとした。 直ぐに秀武追討の兵は、雲霞のように集ってきた。 このところ、真衡の婿の結婚の儀もあって、穏やかで目出度いはずの奥六郡であったが、たちまちに、騒がしく状況となった。 真衡は、すでに出羽国に向かった。 ここで秀武は思った。 「わが方の勢いは、真衡軍と比べれば、まったくもって劣っている。 戦とならば、時も置かず攻め落とされてしまうに違いない。 計略をめぐらすとすれば、陸奥国に清衡、家衡という兄弟がいる。 清衡は亘理の権太夫経清の息子である。 その経清と貞任が揃って討たれた後、武則の子太郎武貞が経清しの妻呼んで家衡を生ませたものである。 とすれば清衡と家衡は、父の違う兄弟である。 秀武は、このふたりのところに使者を送ってこのように告げた。 真衡にこのように家来のようにしていることに不満はないのか。 思いがけないようなことが起きて、真衡軍は勢いに任せて私の下に攻め込んできている。 その後に立って、詐りを言って真衡の妻子を奪い、その家を焼き払ってはくれないか。 そうしてこそようやく真衡の勢いは傾くであろう。 その隙を突くことは、今まさに天が与えた時というものである。 真衡は妻子を奪われ、住宅を焼き払われたと聞けば、私の雪まみれの首を真衡に取られたとしてもひとつの憂いもないというものだ。 この言葉に清衡と家衡は、喜んで兵を集めて、真衡の館を襲撃したのであった。 その途中では胆沢郡(伊澤郡)白鳥村の在家四百余りの家屋を合わせて焼払った。 真衡は、この事実を聞いて慌てて帰ってきた。 そしてまづは、清衡と家衡と合戦しようとして馬を走らせた。 清衡、家衡が、又これを聞いて、真衡の軍勢と当たるべきではないと(豊田柵へ)引き返してしまった。 真衡は、秀武方と清衡、家衡方との両方との戦いに挟まれて、ますます怒り心頭に達し、兵を集めて自分の本拠地を固め、もう一度秀武を攻めるために出羽に遠征しようと、幾度も出立しようと思ったが適わなかった。 4 源義家陸奥守として赴任 そこに永保三年(1083)の秋、源義家朝臣が陸奥守として赴任してきたのである。 これにより真衡は当の戦のことなど忘れたように新国司を饗応することに専念することになった。 「三日厨(みっかくりや)」という事があった。 これは日ごとに乗馬五十匹を引いて、金や羽、アザラシの皮、絹布などを、数知れず献上する儀式である。 真衡はやっと新国司を接待し終えて、奥六郡の本拠に帰り、秀武攻略の本意を遂げようとした。 兵を二手に分けて、まずわが館を固め、自分は以前と同じように出羽国に遠征の途に就こうと向かった。 真衡が出羽へ出向したことを聞きつけて、清衡と家衡は、再び真衡の館を攻撃した。 この二人は婿と舅であったがそろって、奥六郡の検問をしていた。 ここから真衡の館が近くにあるので、真衡の妻が、ここに使いをやってこのように言った。 「夫真衡は、秀武が館に向かっている間に、清衡、家衡が夫の留守を突いて襲ってきて戦うことになるかもしれません。 しかしながら、わが方にも兵が多く控えているので、これを防いで戦うことに心配はありません。 但し私は女人でもありますので、大将軍の器に相応しくない大将軍ではありますが、戦いの形勢を国司様に申し上げる次第です。 正経と助兼らは、この話を聞いて、直ぐに真衡の館に向かった。 すると、清衡と家衡軍が襲撃していて戦いは始まっていた。 5 清原武衡の参戦 武衡は、国司が追い返されたと聞いて、陸奥国から軍勢を率いて出羽国にやってきた。 そこで武衡は家衡にこのように言った。 「あなたは独身の身であって、仮にも真衡殿を敵として、たとえ一日と言えども、その兵を追い返して名を天下に示した事は、あなた一人の高名ではなく、すべては、この武衡の面目を施してくれたことになる。 国司源義家殿であるが、古今に名を馳せる源氏平氏の名将を、このように攻め返した事。 これ以上、誉める言葉もない。 これからは、私もあなたと同じ心持ちを持って、死力を尽くして戦い、己の屍(しかばね)を野に曝す覚悟である。 家衡は、これを聞いて大いに喜んだ。 家来らと手を取り奮い立って喜びを爆発させた。 武衡がそこで言ったのは、出羽に金澤の柵といふところがある。 その場所は、沼の柵を上回る優れた館であるということだった。 そして二人は、打ち揃って沼の柵を捨てて、金澤の柵に移動していった。 6 義家の弟義光の陸奥に下る 将軍義家の弟兵衛尉(さひょうえのじょう)源義光が、急に義家軍の陣に馳せ参じてきた。 義光が兄の将軍義家に向かって言った。 「何となく戦の戦況を聞きいたところ『義家が夷に攻められて、形勢はよろしくない』と承って、矢も楯もたまらず、しばらくお役目の休暇を院に申し上げて、こうして陸奥国までやって参りました。 兄義家は、これを聞いて、涙を抑えて言った。 「今日、貴殿がやってきてくれたのは、故父頼義入道が生き返って来られたように思える。 そなたはすでに副将軍となっている。 この上は武衡と家衡の首を必ずや取って、思いを叶えようではないか」と。 前陣の軍は、すでに攻撃を始めて戦っていた。 城中では暗闇の中で喚声が上がり兵たちは弓を振るって矢は空から雨のごとく降ってきた。 さすがの将軍の兵士たちも、疵を負う者が甚だしくかった。 7 鎌倉權五郎景正の武者ぶり 相模国の住人に鎌倉權五郎景正という者がいた。 先祖より名高い武者である。 歳僅か十六歳で、初陣を飾り、大軍を前にして、命を捨てる覚悟で懸命に奮戦する間、征矢(そや)が右の目を貫いた。 何とその矢は、首を射貫いて、冑の鉢付の板に達していた。 その矢を折り、当たった矢を、また射て敵を射取った。 さてその後、陣に帰った景正は、冑を脱いで、「傷を負った」といってて、仰向けに倒れ伏してしまった。 同国の武者に。 三浦の平太郎為次といい者がいた。 この者も相模国では名高き武者である。 貫いた矢を取り出そうと。 景正の顔を踏んで矢を抜こうとした。 すると景正は、倒れ伏しながら、刀を抜き、為次の胴の下に付けた草摺(くさずり)を握って。 刀で突こうとした。 為次は驚いて、「何をする。 何故そんなことをするのだ。 」と言うと、景正は答えて、「弓箭(きゅうせん)に当たって死ぬ事は、武者として望むところだ。 しかし生き永らえて、他人の足でこの面を踏まれることは我慢ならんことだ。 この上は、お前を仇として殺し、私もここにおいて死ぬつもりだ。 」と言った。 為次は、この覚悟に舌を巻いて、言葉を失ってしまった。 そこで、為次は、景正に膝をかがめさせて頭を押さえて、何とか矢を抜いてやった。 多くの者が、この話を見聞きして「景正のような武功は、とにかく前代未聞」と言い合った。 8 薄金が消える 義家軍が、総力を尽くして、攻め落とそうと戦ったのだが、城(金澤の柵)は一向に落城することはなかった。 岸が高く壁を前に置いたような有様だった。 この城からは、遠い敵に対しては、矢を放ってこれを射掛け、近き敵には、石弓を発してこれを打つ戦法であった。 これによって、死んだ兵士は数知れないほどであった。 優れた武者で、常に軍の先頭に立って戦った。 将軍義家は、この武功に感じて「薄金」という名の鎧を着せるほどであった。 金澤の柵の岸の近くに攻め寄せた時、矢が飛んできて、助兼は首を振って身を前屈して、避けようとした。 だが「薄金」の冑のみ打ち落とされてしまった。 この冑が地に落ちた時、冑の本取りの紐が切れてしまって、どこかに消えてしまった。 名品「薄金」の甲は、この時に消失したものである。 助兼は、このことを、深く恥じ、悼(いた)みとしたのである。 9 義家大軍で金澤の柵を囲む 国司義家は、武衡が家衡軍に加わったことを聞いて、ますます怒り心頭に達した。 国の政務に優先して、とにかく兵を調えて、武衡の加わった敵を攻略しようとした。 春から夏に及んで休みなく出立し、秋九月に数万騎の軍勢を率いて、金澤の柵に終結した。 すでに軍勢が出立した日に、大三大夫(大宅)光任は、齢八十のために、この軍勢に加わらず、国府に止まった。 すでに腰は、曲がって、将軍義家の手を取って涙を拭いながら、このように言った。 歳を取るという事は、まったく哀しく情けないものだ。 こうして生きているのに、今日お仕えする義家公が敵を平らげるために出立されるのに、見ることもできないのだ。 」と言ったので、これを聞いた者は、みな「あの忠義の武者も寄る歳波には勝てないのだ」と哀れがって泣くのであった。 10 雁の乱れ 将軍の大軍勢は、すでに金澤の柵に到着した。 その数は、雲霞(うんか)のように野山を覆い隠すほであった。 そこに雁の一団が、斜めに雲の上を渡る様子が見られた。 しかし雁は、陣をたちまちに崩して四方に散り散りに飛んだ。 将軍は、これを遠くにから見て、怪しく思い、かつ驚きてながら、兵たちを野に伏せさせた。 案の定、草むらの中より、三十騎ばかりの敵兵が襲ってきたのであった。 この敵兵たちは、あらかじめ、奇襲を仕掛けるべく隠れていた者たちであった。 将軍の兵たちがこれに射掛けて敵兵を平らげてしまった。 義家朝臣が、以前に宇治殿に参じた時、安倍貞任を攻めた事など申し上げたことに、大江匡房卿が、これを聞いて「武者の器量はあるようだが、合戦の道(兵法)を知らぬようだな」と、一人言を仰ったのを、義家の家来たちがこれを聞いて、「我々の主人ほどの武者を、極端なことを言う老人だな」と思いながら、義家にそのことをそっと告げた。 義家は、この話を聞いて「そんなこともあるだろう」と考えて、江師匡房卿の出るところに寄って行って、丁寧に会釈をした。 その後、この卿に宛ててこんな文を送った。 「この義家、もしもあなた様に、文の道を伺わなかったならば、きっと陸奥にて、武衡のために、戦に破らてしまったことでしょう。 これが「兵が野に伏している時には雁が面を破る(雁の乱れ)」という故事の由来である。 11 剛臆の座 義家は、「剛臆の座」というものを催した。 ある日には、いかにも剛に見ゆる武者たちを一座に据え、臆病に見ゆる武者たちを一座に据えた。 各自は何とかして臆病の座には着きたくないと励んで戦った。 日ごとに剛の座に着く武者が多くなっていった。 腰瀧口季方などは一度も「臆の座」に着くことはなかった。 将軍義家は、片時ももこれを賞賛しないことはなかった。 季方は、副大将義光が家来であった。 将軍の家来たちの中に、特に臆病者と言われる者が五人あった。 これを略頌(りゃくしょう:短詩形の詩歌)として作成した。 鏑の音聞きたくないとして耳を塞ぐ剛の者は、「紀七」、「高七」、「宮藤王」、「腰瀧口」、「末史郎」の五人。 末とは「末割惟弘」の事である。 奥州後三年記上 終 奥州後三年記中 1 秀武の申し出 吉彦秀武が、将軍義家にこのように申し述べた。 「城中を固く防御し、義家殿の軍もすでに膠着状況に馴れてきているように拝見しております。 この上は、かなりの力を尽くして攻撃されても、効果はありますまい。 そこで、しばし戦いをせず、ただ遠巻きに守り通す覚悟でおります。 食糧が尽きることがあれば、間違いなく、自らこの城は落ちるでしょう」と。 義家は、軍勢を遠巻きにして陣を張り、この金澤の柵(城)を取り巻いた。 二方は将軍の兵たちがこれを取り巻いた。 一方は弟の義光軍が取り巻いた。 もう一方は清衡と重宗軍が取り巻いた。 こうして日数を過ぎていって、武衡の配下に亀次、並次という二人の戦士(打手)がいた。 配下の中でも抜群の兵(つわもの)であった。 この者は「強打(こわうち)」と名付けられた。 武衡は使者を将軍の陣に送り、このように申し出た。 「戦いを休止して退屈で仕方ありません。 わが方に亀次という「強打(こはうち)」という者がおります。 どうぞ御覧ください。 そちらからも、相応しい戦士(打手)を一人出して、戦わせたならば、退屈な時の慰めにもなると存じ上げますが、いかがでしょうか。 2 戦士「鬼武」の強力 将軍は、戦いに出すべき戦士を探していると、次任の部下に「鬼武」という者があった。 心は猛々しく身体の力量は危険なほどだ。 この者を選んで出すことにした。 秀武方の亀次は、城中より、送り出されてきた。 二人は、格闘場となる庭で向かい合った。 敵味方双方の軍勢は、目を凝らしてこれを見守った。 双方の戦士の戦いは、すでに一時間が経過した。 お互いに相手の隙を突こうとしたが、双方隙も見せず、この先にどちらかが隙を見せるようにも見えなかった。 しばらくして、亀次が長刀の切っ先が、しきりに上がるように見えたが、その時、鬼武の長刀の切っ先が、甲冑を着ていた亀次を貫いて、崩れ落ちたのであった。 双方の軍勢から喚声が上がった。 将軍は喜び勇んで、勝ち鬨の声は、天まで響くようであった。 これを見て城内の兵士は、亀次の首を取られてはならないと、城内より、幾人かの騎馬武者が駈け出してきた。 将軍方の兵士もまた、亀次の首を渡してはならないと言って、同じように駈け出して戦闘となった。 両軍、右に左に交戦を続けた。 形勢は、将軍の兵士の数が多いこともあって、城内より下ってきた武衡軍の兵士は、ことごとく討ち取られてしまった。 末割惟弘は、臆病の「略頌」に記されたことを深く恥じ入り、「今日こそ私は臆病武者を返上する」と言って、大飯を喰らい酒を呑んで出陣し、言葉のように先を駈けて行ったのだが、かぶら矢が、首の骨に当たって即死した。 射られた傷口から、食したはずの米が、姿も変わらず、辺りにこぼれ出していた。 それを見た者は、みな「何と情けない最期か」と言い合った。 将軍は、この話を聞き、悲しんで言った。 「元来、切り通しではない人が、一度励んで先を駈けてみたところで、必ず死ぬということは、このようなことを言うのだ。 そもそも喰らったものが、腹にまで達せず、喉に止まっているなど、臆病の者の証明だ」と。 3 千任の大演説 家衡の乳母に千任という者がいた。 ある日、やぐらの上に立って、大声で城外の将軍にこのように言い放った。 「汝の父頼義が、どうしても安倍貞任、宗任を討ち果たすことができずに、名簿(みょうぶ=服属する時に目上の者に渡す名札のこと)をもって、故清原武則将軍と打ち合わせをして、はっきり言えば、その力によって、たまたま貞任を打ち破ることができたのである。 恩を受け、徳を授かっているはずで、それをいづれの世にか、報いるべきではないか。 ところが、汝は、すでに相伝の家人として、感謝に絶えない大恩のある主君を攻め立てているのである。 この不忠不義の罪について、おそらく天道の責めを蒙るに違いあるまい。 これに、義家方の多くの兵士が、各々唇を尖らせて、反論しようとするのを、将軍は制して言わせなかった。 将軍が言うには、「もし千任を生捕にする者があれば、あのような者のために、命を捨てても惜しくないと、塵(ちり)や灰汁(あく)よりも自らの命を軽んじて生け捕りにせよ。 」ということだった。 4 義光を叱る義家 城内では、食糧が尽きて、そこにいる男女は、みな嘆き悲しむことになった。 武衡は、義光に使者を送って、降参の承諾を請い求めた。 義光は、このことを兄の将軍義家に報告した。 将軍は、これを敢えて許さなかった。 武衡は、心遣いのある言葉をもって義光にこのように語った。 「わが君よ。 申しわけありませんが、どうぞ城の中へ来てください。 そのお供ができたならば、それでも助かります。 義光が行くべきだと言うのを聞いて、将軍は弟義光を呼んで言った。 「昔から現在に至るまで、大将や次将が、敵に呼ばれて敵の中に入って行くことは、今以て聞いたことがない。 お前が、もし武衡や家衡に取り込められるようなことがあれば、、私は、百回や千回悔いることになるかもしれない。 何の意味もないことだ。 そのことは、世の誹(そし)りを末代まで残し、きっと源氏の家名は、日本中であざけり笑われることを招いてしまうかもしれない。 」と義光の提案をまったく受け付けなかった。 これによって義光は行かないでいると、武衡は、更に言ってきた。 「あなた様が来て下さらないのであれば、どなたか代理の方をお一人寄こしてはくださりませんか。 その方に、こちらが考えていることを申し上げましょう。 5 義光の代理人「季方」 そこで義光は、家来の中から、誰か行きたい者はないかと人選をした。 すると、大方の者が季方こそその任に就くべきではないかなどの議論があって、季方を交渉に行かせることになった。 その装束は、赤色の狩衣に、青に紋のない袴を履き、太刀を着けたものだった。 城戸が、そっと開いて。 季方ひとりが入ると、その周囲を敵の兵がまるで垣根のように立ち並び、弓や太刀や刀が、林のようにずらりと道を挟んで立て掛けてあった。 季方は、少し背筋を伸ばしてゆっくり中に入って行った。 家の中に上がり待っていると、武衡は出迎えて大いに喜んだ。 季方が近くに居るにもかかわらず、家衡は隠れて現れなかった。 武衡は、「色々事情はあるとは思いますが、そこを曲げて助けて下さりませんか。 兵衛殿(義光)にくれぐれも申し上げてください。 」と言うと、金を沢山取ってきて渡した。 これに季方が言った。 「城中の財物は、今日戴かなくても、あなた方が落城されたならば、わが方の物になるのではありませんか。 」 そう言って、季方は、受け取らなかった。 武衡は、奥より、大きな矢を持ってきて言った。 「これは誰の矢だと思いますか。 この矢が来たように、必ず当たるのです。 射られた者はみな息絶えてしまった。 季方は、矢を見て言った。 「これは、私の矢です」と。 また立上がって言った。 「もし私を捕虜に取ろうと思うのであれば、只今、ここでどのようにもして下さい。 城内を出る時に、たくさんの兵の中で、ともかく捕縛されることは、極めて悪いことだと思います。 武衡は、それに答えて、「まさか、そんなことはあろうはずもありません。 私が請い願うことは、ただただあなた様が、陣にお帰りになったならば、私の真意をよくよく義光殿に伝えていただくことだけです。 」と申し添えるのであった。 季方は、入る時と同じように、兵の中を分け入って帰る時、太刀の束に手をかけて、少し笑みを浮かべ、何もなかったように、ゆっくり歩を進めたのであった。 これ以後、季方の世間の評判は、ますます高くなった。 6 寒さに泣く義家軍 義家軍が、城を兵糧攻めに包囲して、ついに秋から冬となった。 凍えるような寒さと冷気のため、みな凍えていた。 各自が、悲しんで言った。 「去年のように大雪が降るのも、今日か明日のことだろう。 もしも雪が降ったならば、凍え死んでしまうことは疑いない事実だ。 自分の妻子たちは、国府に住んでいる。 これから各自、どのようにして、京の都へ上る日がくるだろう。 そして、兵らは、泣く泣く、手紙などをしたためた。 「われらは一丈の雪に埋もれて死のうとしている。 これを使って路銀として。 どうにかして、京に帰りなさい。 」などと。 そして自分が、着けていた大鎧を脱いで、乗っていた馬なども国府に送った。 7 義家城戸を出て来た女と子どもを惨殺す 武衡、家衡の立て籠もる城中では、飢が酷くなって、まず女性や子どもなどを、城戸を開いて出てきた。 義家軍も、これをみな道を開けて通してやった。 この様子を見て、城中の者は、喜んで、更に多くの者たちが、続々と城戸を出てきた。 ここで、秀武が将軍に、このように申し上げた。 「城戸から出てくる女、子どもの首を切りましょう。 「何故、そのようなことを?」と義家が理由を問うと、 秀武が言うには、「目の前で殺されるのを見れば、残りの女、子どもも出てくることはでしょう。 そうなれば、城中に残った食料もその分早く尽きることになります。 すでに雪の季節になったので、夜となく昼となく、何があるか分からず、恐れているでしょう。 一時でも早く城が落ちることを願うのみです。 今出てきている子や女子は、城中に籠城する兵士の愛妻や愛する子どもらです。 この者たちが、城中にいたならば、自分ひとりが食事を取って、妻子に食わせぬ事はありますまい。 だから、同じ時期にきっと餓死するはずです。 そうすれば、城中の食糧は、随分早く尽きてなくなるはずです」と。 将軍は、この話を聞て、「なるほどもっともだ。 」と言って、城から出て来た女性や子どもなどを、全員目の前で殺害してしまった。 これを見て、武衡軍は、固く城戸を閉じ、続いて下ってくる者はなかった。 奥州後三年記中 終 奥州後三年記下 1 金澤の柵落城する 藤原資道は、将軍の特に親しい家来である。 齢わずか十三歳にして、将軍の陣中にあって、夜昼と離れることはない。 夜半に、将軍資道を起こして言った。 「武衡、家衡、喜んで落城するだろう。 凍えている敵兵たちが、それぞれもぐり込んでいる仮屋に、火を付けて、凍えた手を炙(あぶ)ればよい。 資道は、この作戦を執行した。 人は、どうなることだろう、と怪しく思ったけれども、将軍の言い付けのままに、仮屋に、次々と火を付けて、各々手を炙っていると、事実、次の日の夜明けの頃、何と落城したのである。 人は、これを神のなせる技と思った。 確かに、すでに寒の入りの頃合いになったといえども、天が将軍の志しを助けたのではなかろうか。。 その日に限って、雪は何故か降らず、武衡家衡の城内の食糧は。 ことごとく無くなって、、寛治五年(1092)十一月十四日の夜。 金澤の柵は、ついに落城したのである。 2 落城の地獄 城内の家屋にすべてに火を放ち、畑の中に呻き叫び合う声は、まさに阿鼻叫喚の地獄のようであった。 城内の者たちは、四方八方に蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた。 将軍の殺戮から逃れられる者は、千万に一人の有様。 武衡も逃げたはいいが、城内の池があったところに飛込んで、水に沈んで顔を草むらに隠していたところを、兵士たちは、先を争ってこれを探した。 ついに見つかり、池から引き出されて生け捕りにされた。 千任も同じように、生きたまま捕虜となった。 家衡は、花柑子(はなこうじ)と呼ばれる馬を持っていた。 この馬は奥六郡一の名馬であった。 家衡がこの馬を愛でること、妻子を上回るほどであったが、逃げた後に、馬が敵に取られてしまうことを、妬ましいことだと思って、繋いでいるところを、自ら射殺してしまった。 その後、家衡は、下郎の格好に姿を変えて、少しの間ではあったが、逃げ伸びたのであった。 城中の美しい女たちは、兵士たちが争って取って、陣内の奥で乱暴された。 男の首は鉾に刺されて先を行けば、女たちは涙を流しながら、その後を続き歩いて行くのであった。 3 武衡の処分 将軍は、生け捕りにした武衡を御前に召し出し、自らで尋問に及んだ。 「戦において、軍の動勢を背景に敵軍を攻略するのは、今も昔もなく、当り前のことである。 先の戦(前九年の役)で武則でも、太政官符の命令によって、あるいは将軍との談議によって、国府軍に加わったものである。 ところが、先日、そなたの家臣の千任丸にどなたが教えたのかは不明だか、名簿が存在するようなことを申したな。 その名簿とやら、そなたの家に伝わっているのなら、速やかに、ここに取ってきて出してみよ。 先の武則は、夷(えびす)の賤しき名を持ちながら、ありがたくも鎮守府将軍を拝命した。 それははっきり言えば、鎮守府将軍の名を汚す前代未聞の異例の人事であった。 それもこれも先の将軍わが父頼義の口添えにて実現したことである。 これ以上の功労の報いなどあろうか。 それをそなたたちは、少しも功労などない身の上でありながら、謀反を起こした。 いつどこで、この私が、そなたたちから助けを受けたというのか。 ところが、千任丸は、先頃大声で「重恩の主」とそなたのことを名乗り、私をその「家人」と罵倒した。 その思いはいったいどうなっているのか。 しっかりと考えを説明してみよ。 武衡は頭を地につけ、敢て目を上げず、涙声で、「一日だけ命の猶予をいただきたい」と言った。 義家は、兼仗大宅光房に命じて、その首を斬せた。 武衡が斬首されようとする時。 副将軍の義光が兄義家に向かって言った。 「兵衛殿(義家)どうか武衡を助けてください。 」 義光は続けてこう言った。 「武士の道(兵の道)とは、降人(降参した者)を寛大に扱うのは、古今の例です。 その中にあって、武衡一人を何の配慮もなく、首を斬ることは、いかがでしょうか。 」 義家は、怒りを隠さす義光に向かって爪を弾きながら言った。 「降人とのは、いったん戦場を逃れて、追っ手の手に掛からず、その後、自分の罪科(つみとが)を悔い、自首してくることをいうのだ。 いわゆる宗任らのような行為をいうのだ。 ところが武衡は、戦場において生け捕りにされた者だ。 その上、不作法にも、片時の命を惜しむとは、このような者を降人というべきではない。 そなたは武士の礼法をまったくわきまえていないのだ。 そして武衡はついに斬られた。 4 千任丸の舌 次ぎに、千任丸が召し出された。 義家は言った。 「先日、矢倉の上で言ったことを、今、もう一度言ってみろ。 」 千任は、頭を垂れて何も言わなかった。 「その者の舌を切れ」と義家は命じた。 すると、源直という者が、千任に近寄って、手でその舌を引出そうとした。 義家は、激怒しながら、 「虎の口に手を入れるのは、愚かなことだ。 」と言って、源直を追い払った。 特に力自慢の兵を幾人か呼び寄せ、その中からとっておきの猛者を選んだ。 その者に焼けた鉄を掴む金ばさみを取らせ、舌を挟んで抜くように命じた。 ところが、千任は歯を食いしばって口を開こうとしない。 猛者は、金ばさみで歯を突き破り、ついにその舌を引き出し、これを切ってしまった。 千任の舌を切り終わると、縛り上げて、木の枝につり下げ、足を地に着かない程にして、その足の下に、武衡の首を置いた。 千任は、泣きながら足を縮めて、何とか主人の首を踏まないように我慢をした。 しかししばらくして、力尽き、足を下げて、ついに主人武衡の首を踏んでしまったのであった。 5 家衡の最期 将軍義家は、この様子を見て、家来たちに言った。 「二年の愁眉(しゅうび)が、たった今開けた。 それでも猶、心残りは、家衡の首をみないことだ。 金澤の柵を見れば、城中の家屋という家屋は、一瞬にして焼け落ちて滅び去った。 戦場となった城内を見れば、至るところに人や馬が麻布が解かれたように散乱している。 縣小次郎次任という者がいた。 当国において名高い武者である。 この者が、城中から逃れてようとする者を道を封鎖して固め、次々と捕まえた。 その中に家衡もいた。 家衡は、何とか逃げようとして下郎の格好に身を落としていたが、次任がこれを見破って討ち殺して、その首を斬って将軍の前に参上した。 6 義家の挫折 将軍義家は、これを聞いて、喜びが骨を徹(とお)して伝わるようであった。 次任を近くに呼んで、自ら紅の絹を取って、これを次任に掛け、労をねぎらった。 また上等の馬一疋に鞍を着けて与えた。 「家衡の首を持ってまいれ」と次任が大声で言った。 義家は、あまりの嬉しさに、「誰が持って来るのか?」と待ち遠し気に言った。 すると次任の家来が家衡が首を鋒(はち)に刺して持ってきて、義家の前に跪き言った。 「これはわが縣殿の手づくりでございます。 義家は「大変すばらしい」と誉めた。 陸奥国では、自らで仕上げることを「手づくり」というのである。 次ぎに次任の家来たちは、武衡と家衡の家来の中で主だった兵四十八人の首を将軍の前に差し出したのであった。 さて将軍義家は、国解(こくげ=太政官への報告書)を次のように書いて都に送った。 「清原武衡及び同家衡の謀反は、すでに安倍貞任、同宗任の罪科を過ぎたものでございましたが、私と国府の総力をもって、この賊軍をたちまち平定することができました。 この上は、いち早く、追討の官符(=太政官からの命令書)を賜って、その賊徒の首を京に持参いたしたいと申し上げます。 ところが、この義家の願いも虚しく、太政官の間では「私の敵を倒した」に過ぎないとの認識が拡がっていると聞こえてきた。 太政官の立場に立てば、もしも義家に官符を与えたならば、勧賞(かんしょう=官位や物品などの褒美)を要求されることになり、それによって官符は発行されなかったと思われる。 義家は、官符が出されないとの決定が下ったことを聞いて、武衡と家衡の首を道に捨てて、むなしく上京するのであった・・・。 奥州後三年記下終 此記不知何人作也。 備史君平宰相忠雄卿。 所蔵本國記三巻。 上巻土御門文殿寄人仲直。 中巻持明院左少将保脩。 下巻世尊寺従三位行忠。 各寫其詞為。 圖則晝工飛騨守惟久筆也。 予得偶見尤欣賞寫而留為。 其間假字遣等一随其本。 眞字以眞字寫假字以假字寫不更一字。 而又一 梭了須為證本也。 然彼以假字交艸行字。 此以片假字交眞字。 唯是之喚耳。 此記詞簡古而理較著。 人僉曰平家物語下。 出太平記上。 予於此記亦云出平家上。 然只讀至抜千任之舌蹈武衡之頭。 暴刑有害道義。 所不満于予心也。 此記巻首奮本己脱。 惜矣史之關文也。 而今欲補難獲它本。 姑竢異日洽聞之士之為焉云爾。 了 2012年6月11日〜 佐藤弘弥.

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紫式部日記の現代語訳が知りたいのですが…

土御門の秋 現代語訳

いわば、イデオロギッシュなものが、エロスと暴力こき混ぜた波瀾の物語に導いたわけで、皮肉ともいえるが、そこに人間の不思議と中世という時代の一面がある。 中世の多くのイデオロギー説は、外見の厳めしさとはうらはらに、実際には人間の生の現実性、欲望や体臭とないまぜの形でしか存在しえなかったのである。 私はかくなることを恐れたがゆえに、そのために注解を作り、その障害を取りのぞき、荒地をひらき、この深義を理解し、その深浅を標示した。 こいねがわくは名文をしてこの世より 失 ( う )せず、珍しい物語が今日より絶えることがなければ、 夏后 ( かこう )の事績は将来にわたって忘れさられることなく、八方の世界の果の事も後世の人びとに伝わることであろう。 これもまたよいことではないか。 (この絵巻物は、現在、が運営しているに所蔵されています。 このことから、この絵巻物は「 逸翁本 いつおうぼん 」や「 逸本 いつほん 」と呼ばれることもあります。 ) その『 大江山絵詞 おおえやまえことば 』の、の文章や、 詞書 ことばがき のや、 詞書 ことばがき の現代語訳や、 詞書 ことばがき と絵図の本来の並び順、などについてお話します。 [Content protected for 管理者限定 members only] 酒呑童子の説話をいまにつたえる代表的な2大文化財である、 香取本 かとりぼん 『 大江山絵詞 おおえやまえことば 』( 逸翁 いつおう 美術館所蔵)と、 古法眼本 こほうげんぼん 『 酒伝童子絵巻 しゅてんどうじえまき 』(サントリー美術館所蔵)の、2つの絵巻物について ちなみに、酒呑童子の説話をいまにつたえる代表的な2大文化財(絵巻物)として、 香取本 かとりぼん 『 大江山絵詞 おおえやまえことば 』(所蔵)と、 古法眼本 こほうげんぼん 『 酒伝童子絵巻 しゅてんどうじえまき 』(所蔵)の、2つの絵巻物があります。 もうひとつの代表的な酒呑童子説話の文化財(絵巻物)として、に所蔵されている、 古法眼本 こほうげんぼん 『 酒伝童子絵巻 しゅてんどうじえまき 』という絵巻物があります。 古法眼本 こほうげんぼん 『 酒伝童子絵巻 しゅてんどうじえまき 』の絵図は、 狩野派 かのうは 2代目の絵師である 狩野元信 かのうもとのぶ が描いたとされている絵図です。 狩野元信 かのうもとのぶ は、通称「 古法眼 こほうげん 」とも呼ばれます。 サントリー美術館所蔵の『 酒伝童子絵巻 しゅてんどうじえまき 』は、 古法眼 こほうげん ( 狩野元信 かのうもとのぶ )が絵図を描いた絵巻物なので、「 古法眼本 こほうげんぼん 」と呼ばれることもあります。 また、この絵巻物は、に所蔵されていることから、「サントリー 本 ぼん 」や「 サ本 さほん 」と呼ばれることもあります。 酒呑童子の説話は、中世から現在までの約600年以上の長い歴史のなかで、絵画や、文学、能楽(謡曲)、浄瑠璃、歌舞伎、演劇、唱歌・楽曲、映画、マンガ、アニメ、ゲームなどなど、数え切れないほどたくさんの文化や芸術に取り入れられてきました。 そのように、酒呑童子の説話は、これまでの日本の文化や芸術に大きな影響を与えてきましたし、いまの日本の文化や芸術にも大きな影響を与え続けていますし、これからの日本の文化や芸術にも大きな影響を与え続けていくことでしょう。 また、その文化的・芸術的影響は、日本だけにとどまらず、世界中に広がりつづけています。 そうした、酒呑童子の説話の影響の大きさを考えると、酒呑童子の説話をいまにつたえている代表的な2大文化財(絵巻物)である、 香取本 かとりぼん 『 大江山絵詞 おおえやまえことば 』( 逸翁 いつおう 美術館所蔵)と、 古法眼本 こほうげんぼん 『 酒伝童子絵巻 しゅてんどうじえまき 』(サントリー美術館所蔵)の2大絵巻物が、文化財として、とても価値が高いものであるということが、おわかりいただけるかとおもいます。 後魏の 酈 ( れき )道元は『水経』に注をして、『山海経』は世に埋もれること 歳 ( とし )久しく、 韋編 ( いへん )ほとんど絶え、書策の順序は乱れて編集しがたく、後人が仮に綴り合わせたから、古人の遠意と異なるところが多いという。 まことに古経の残簡の復元しがたいのは昔からなのである。 ですが、この三巻の巻物のかたちにまとめられる以前は、絵図と 詞書 ことばがき が巻物のかたちにまとめられていたわけではなく、絵図と 詞書 ことばがき がバラバラになっている状態だったそうです。 しかも、 詞書 ことばがき の文章や、絵図の一部が欠損している状態であったそうです。 そのため、 香取本 かとりぼん 『 大江山絵詞 おおえやまえことば 』の絵巻物の、もともとの絵図と 詞書 ことばがき の正しい並び順は、わからなくなってしまっているのです。 ですので、現状の 香取本 かとりぼん 『 大江山絵詞 おおえやまえことば 』の絵巻物の、絵図と 詞書 ことばがき の並び順は、正しい並び順ではなく、並び順がまちがっている部分もあるようです。 高橋昌明さんの復元案は、という本の巻末の「【付録】『大江山絵詞』復元の試み」という部分に掲載されています。 ぼくが知る限り、いまのところは、この高橋昌明さんの復元案の順序が、本来の正しい並び順にいちばんちかいのではないかと考えています。 高橋昌明さんの復元案:上巻 以下では、高橋昌明さんが考案された 香取本 かとりぼん 『 大江山絵詞 おおえやまえことば 』の復元案のなかの、「上巻」のなかのそれぞれの段の、 詞書 ことばがき と、絵図を、紹介します。 高橋昌明さんの復元案:上巻 第一段 以下は、「高橋昌明さんの復元案:上巻 第一段」の、 詞書 ことばがき と、絵図です。 夫、徳政をもて国を治時は、則、仏神覆護して玄応をたれ、応善をもて世を祈ときは、又、星宿随喜して当生を利したまふ。 御年七歳にして帝位につき、九歳にして詩筆にたつさはり給へり。 さきには政を文学にみかきてあまねく百家に通し、後には妄想を真如にとらかしてふかく三宝に帰し給き。 凡夫在位廿六年のあひた、南面の化実に恵露世をうるをし、左言の心さらになをくきてうにみてりされは、一天皆聖猷をあふきたてまつり、万人権化とうたかひ申、徳はさらに八埏のみちをたらす。 此時を得て顕教蜜宗のしな〳〵なるともに現証をあらはし、左文右武のまち〳〵なるたかひに能芸をあらそひ、医算のたくひおの〳〵妙功をぬき、いつ名は往生よりもたかく、陰陽の輩術徳をほとこすほまれは後代にしのきけり。 王侯相将よりはしめて、緇素男女におよふまて、其仁風にそみ其恩波に浴せすといふことなし。 九重の卿相侍臣よりはしめて、諸国の上下土民にいたるまて、或は父母兄弟にわかれてむねをこかすともからもあり、或は妻子眷属を失て袖をうるをすやからもあり、洛中洛外にかなしみの涙尽かたく、村南村北になくこえたえさりけり。 つねは暴風雷雨して変異奇特のことくも有けり。 上臥したるわか殿上人しかるへき人〻の姫君北方つほねまちの女童部にいたるまて、其数おほくうせ行けり。 古世の語に無為の世にいたり有苗の伐あり、垂拱の時にも遂鹿の戦ありなとかきをかれたるもおもひあはせられ侍にや。 其比晴明といふ者有けり。 陰陽卜巫の術掌をさすににたり。 天変地変に目に見かことし。 すなはち、めされて御占ありけるに、うらなひ申ていはく、帝都より西北にあたりて大江山といふ山有。 かの所にすむ鬼王の所行なり。 時うつり、日かさなりては、九重の上下諸国の人民一人として跡をとゝむへからす。 公卿僉儀、度〻におよひて後、右心みにいはく、朝家に文武二道を定置るゝ事、文をもて {万機の政務をとり、武をもては諸国の乱逆をうちしつめんかためなり。 すみやかに致頼〻信維衡保昌等をめされて、このむねを仰ふくめらるへしと定申されけれは、すなはち、四人の武士をめして此由を仰す。 各申されけるは、まことに弓箭の【道には偏に】朝敵をたいらけんかためな【り。 夫仰を】辞申におよはす。 五材四【義に忠をつくし】、左車右馬のはかりとを【めくらすへしと】いへとも、これはすかたをみさる【天魔、声を】きかさる鬼神なり。 合戦【をとくる事】、人力及かたきよしをそ申ける。 【爰に閑】院の左大将実躬卿、其時中納言にてをはしけるか申されけるは、かゝる変化の者も、王土にあとをとゝめなから、いかてか天気にしたかはさるへきとなむ、摂津守頼光・丹後守保昌、二人に仰られてめさるへきよし申されけれは、諸卿一同して両将をめされぬ。 我朝の天下の大事これにすくへからす。 各武勇の心さしをはけまして、速に凶害の輩をしつむへしと仰ふくめられしかは、各畏て罷出ぬ。 煙霞東西に心なけれとも、風にあふときはたちまちに飛行す。 これすなはち順の徳也。 人臣は遠近におよひなけれとも、命をふくむときは馳走す。 これすなはち【忠のい】たるをや。 両輩各宿所へ退【出して綸】言そむきかたかりし間、おも【ひ〳〵に出立けり】。 是則とゆへなく朝敵をほろほして再会を期せんとなり。 すてに発向と聞しかは、近国の武士数万騎をあひもよをして、二人の将軍にさしそへられけり。 爰頼光申けるは、朝敵をうたんことかならすしも勢によるへからす。 且は、かれらか妻子の歎も不便なり。 王威むなしからすは、宣旨豈ゆるなるへしやとて、とめをかれしかは、各悦の涙をゝさへてとゝまりぬ。 保昌は、赤地錦鎧直垂にむらさきすそ、この鎧にくわかたうちたるかふともたせて、たかうすへをの征矢おひて、ふしまきの弓つへにつき、白きひるまきの太刀に、虎皮のしんさや入てはき、庭上にゆるきいてたるけしきまことにあたりをはらひてそみえける。 のこりの郎等共もともせんとはやりけれとも、妻子なともさすか心くるしくやありけん。 かれらにつけてみなとゝめけれは、心ならすとゝまりぬ。 さりけれとも、京中はかりは共したりけり。 山よりなを山に入、谷より又谷につたへとも、あやしきこともみえさりしかは、頼光の給けるは、王敵をうちたいらけすは、なかく都へ帰へからすといはれけれは、保昌尤可然とて、実躰同心。 こゝや、かしこや、たつねゆくに、巌崛みちほそくして、身をそはめて入所もあり、渓樹枝をうなたれて、頭をかたふけてゆくところもあり。 さる程に、ある山のほこらをみやれは、あやしきことも侍りけり。 かのすかた白髪なる老翁一人、としたかき山臥、老僧や、若き僧、各一人つゝ種〻酒肴用意して、柴宿さして唐櫃なとかきすへて、人をあひまつ {けしきなり。 各これをみて、うたかひなき変化の者と思けれは、太刀をぬき、弓をひきてむかふ処に、白翁すゝみ出て、きものをぬきかけて、はたかになりて、手をあはせていひけるは、をそれあやしみ給ことなかれ。 各をまちたてまつるなり。 そのゆへは、翁は【子供】六七人もちたりしを、一人【ならす鬼】王にとりうしなはれて、こ【の歎い】かはかりとかおもひ給。 かの山【臥は、同行あまた】とられ、この若僧は、弟子【・師匠を失】なひてなげき給へは、両【将宣旨を】うけ給て鬼城へたつねむ【かひ給由】をつたへうけ給はるあひた、よろこひをなして、我等も御共仕て、心のゆくかたと、かのところへあひむかはんためなり、とかたりけるに、頼光の給けるは、かくの給へはとて、心をゆるしたてまつるには侍らねとも、我等宣旨をくひにかけて侍れは、我等か身には何事か侍らんとて、太刀をゝさめ、弓をなをして、各用意の飯酒ともに至極して鬼城をもとめいたすへきとはかるところに、白翁申けるは、そのすかたともにては、たつね給はんことかなふへからす。 たとひ兄弟なりとも、いかてかたやすくあふことをうへき。 …… たり。 頭には黒髪もなく白髪なるが、顔譬へむ方なし。 色々様々に血の付きたる物を洗ひて木の枝に掛け、岩の角等に干し掛けたり。 人々是を見て、「疑ひ無く変化の物よ」と思ひて、忽ちに命を失ひてんとする所に、女、手を合はせて、「我、更に鬼神・変化の物にあらず。 本はよな、生田の里の賤の女にて侍りしが、思はぬ外に、鬼王に捕られて此の所に来て侍りし時、『骨強く筋高し』とて捨てられしが、この器量の者とて、斯かる着物を洗はせらるゝなり。 古里も懐しく、親しき者も恋しけれども、春行き秋闌けて、既に二百余廻りの季月を重ねたり。 さても此の人々は、如何にして是へはおはしぬるにか。 速やかに疾く帰り給へ。 此の所は遥かに人間の里を離れたり。 齢しかも盛りなる人々也。 いと悲しくこそ覚ゆれ」と申しければ、頼光問ひ給ひけるは、「此の山は大江山の奥也。 人間を離れたるとは何事ぞ」と宣へば、老女答へけるは、「是へおはしつる道には、岩穴のありつるぞかし。 其の穴より此の方は、〈鬼隠しの里〉と申す所なり」とぞ申しける。 保昌、賤の女にまた問はれけるは、「さて、 此 ( こ )の 所 ( ところ )の 有様 ( ありさま )、 詳 ( くわ )しく 語 ( かた )り 申 ( もう )せ。 王 ( おう )の 宣旨 ( せんじ )を 蒙 ( こうむ )りて 尋 ( たず )ね 来 ( こ )れる 也 ( なり )」と 宣 ( のたま )へば、「さてはありの 儘 ( まま )に 申 ( もう )すべし」とて、「 鬼王 ( きおう )の 城 ( じょう )は 此 ( こ )の 上 ( かみ )に 侍 ( はべ )る 也 ( なり )。 八足 ( はっそく )の 門 ( かど )を 立 ( た )てて〈 酒天童子 ( しゅてんどうじ )〉と 額 ( がく )をば 書 ( か )きたる 由 ( よし )をぞ 聞 ( き )き 侍 ( はべ )りし。 彼 ( か )の 亭主 ( ていしゅ )の 鬼王 ( きおう )、 仮 ( かり )に 童子 ( どうじ )の 姿 ( すがた )に 変 ( へん )じて 酒 ( さけ )を 愛 ( あい )する 也 ( なり )。 九重 ( ここのえ )の 内 ( うち )より 公卿 ( くげ )・ 殿上人 ( てんじょうびと )の 姫君 ( ひめぎみ )・ 北の方 ( きたのかた )、 貴賤 ( きせん ) 上下 ( じょうげ ) 取 ( と )り 集 ( あつ )めて、 料理包丁 ( りょうりほうちょう )して 喰ひ物 ( くいもの )とす。 此の頃、都に晴明と申すなる、泰山府君を祭り給ふによりて、式神・護法、隙なく国土を廻りて守護し給ふ故に、都より人をも取り得ずして、帰る時は漫ろに腹を据ゑかねて、胸を叩き歯を食ひ縛りて、眼を怒らかして侍る也。 徒然なる儘に、笛を吹きて遊び給ふ。 不思議なる事の侍るは、天台座主慈恵大師の御弟子御堂の入道殿の御子の幼き児を取りて、鉄石の籠に込め奉る所に、彼の児、他念無く法華経を読み奉り給ふ御声、暁様には是まで聞こへ侍るぞや。 斯様に生きながら魔道の報いを受けて侍れば、其の罪業を悲しく思ふに、『此の御経の御声を承るにこそ、罪障も消滅するらん』と忝く侍る。 また、慈恵大師の手づから自ら行なひ給へばや、彼の一乗守護の為に、諸天善神、雨の如くに集まり、雲の如くに来りて、夙夜不断に修行し給へるに、鬼王も持ち扱ひて侍る」由をぞ語りける。 賤の女の詞に随ひて、此の所を少し歩み登りて見れば、誠に八足の大門あり。 門の柱・扉は美しく殊勝にして、辺りも輝く程也。 四方の山は瑠璃の如し。 地は水精の砂を撒きたるに似たり。 各これを見るに、石室霜深くして、迦葉の洞に来れるかと疑ひ、蘿径雪浅くして、懺悔の庭に臨めるが如し。 頼光、綱を召して、「門の内へ入りて案内聞け」と宣へば、綱、忽ちに樊噲が思ひをなして、唯一人門の内へ入りて、寝殿と思しき所へ差し回りて、「物申さん」と高らかに申しければ、内より気高く由々しき声にて、「何物ぞ」と答へて出でたる人を見れば、一丈計りなる大の童の練貫の小袖に大口踏み包みて、笛持ちたる手にて簾掻き上げて、「誰人ぞ」と問ふ。 眼居・言柄、気高く由々しき気色にてぞ有りける。 綱少しも騒がず、「諸国修行の者、山臥ども十余人侍るが、道に踏み迷ひて是まで参るなり。 御宿給はらん」と申しければ、童子、「然らば、惣門の際なる廊へ入れ奉れ」とて、案内者の女房副へたり。 此の女房、綱が前に立ち、ゆくゆく袖を顔に当ててさめざめと泣きければ、綱、事の故を問ふに、女房答へけるは、「御姿を見奉るに、修行者にこそおはしますめれ。 是へおはしなん後、生きて古郷へ帰る事あるべからず。 愛しく悲しくこそ思ひ奉れ。 我は是、土御門の内府宗成卿の第三の女なり。 過ぐる秋の頃、月を詠じし程に敢なく獲られて、心憂き目をば見る也。 少しも心に違ふ物をば、果物と名付けて座を変へず喰らひ侍れば、目の前に見るも心憂し。 今日や身の上にならむずらんと思ふに、雪山の鳥の心地して、悲しく心憂く侍る」と申す。 斯かるを聞くに、由々しき事を聞くものかなと思へども、然らぬ体に持て成して、門の際なる廊へ人々をも入れ奉りぬ。 其の後、度ばかり有りて、容顔美麗の女房達、円座十枚持て来て、此の人々に敷かせけり。 銀の瓶子の大やかなるに酒入れ、金の鉢等に何の肉やらん、いと高く盛り上げて持ちつつ来り。 彼の唐土の張文成といひし人が仙窟に至りて、神女に会ひ慣れけんも、斯くや有りけんとぞ覚えける。 頼光 よりみつ ・ 保昌 やすまさ 、同じ 詞 ことば に、「同じくは、 亭主 ていしゅ の 御出 おい であらんこそ 面白 おもしろ く 侍 はべ るべけれ。 我等 われら 許 ばか りは 珍 めずら しからぬ 同行 どうぎょう 共 ども にてある」と言はれければ、 暫 しばら くありて 亭主 ていしゅ の 童子 どうじ 出 い で 来 きた り。 丈 たけ 一丈 いちじょう 計 ばか りなるが、 眼居 まなこい ・ 言柄 ことがら 誠 まこと に 畏 かしこ く、 智恵 ちえ 深 ぶか げにて、 色々 いろいろ の 小袖 こそで に、白き 袴 はかま に 香 こう の 水干 すいかん をぞ着たりける。 美しき 女房 にょうぼう 達 たち 四、五人に、 或 あるい は 円座 えんざ 、 或 あるい は 脇息 きょうそく 持たせて、 辺 あた りも 輝 かがや く 計 ばか りに 由々 ゆゆ しくぞ見えし。 童子 どうじ 、 頼光 よりみつ に問ひ 申 もう されけるは、「 御 おん 修行者 すぎょうざ 、 何方 いずかた より 何 いか なる 所 ところ へとて 御出 おい で 候 そうら ひけるぞ」と問ひければ、答へられけるは、「諸国 一見 いっけん の 為 ため に 罷 まか り 出 い でたるが、 漫 すず ろに山に 踏 ふ み迷ひて、 是 これ まで 来 きた る」 由 よし をぞ答へられける。 童子 どうじ 、 又 また 我身 わがみ の 有様 ありさま を心に 懸 か けて語りけり。 「 我 われ は 是 これ 、酒を深く愛する者なり。 然 さ れば、 眷属等 けんぞくら には 酒天童子 しゅてんどうじ と 異名 いみょう に呼び付けられ 侍 はべ るなり。 古 いにしえ はよな、 平野山 ひらのやま を 重代 じゅうだい の 私領 しりょう として 罷 まか り過ぎしを、 伝教大師 でんぎょうだいし といひし 不思議 ふしぎ の 房 ぼう が 此 こ の山を 点 てん じ取りて、 峰 みね には 根本中堂 こんぽんちゅうどう を建て、 麓 ふもと には 七社 しちしゃ の 霊神 れいじん を 崇 あが め 奉 たてまつ らんとせられしを、 年来 ねんらい の 住所 すみどころ なれば、 且 かつ は 名残 なごり も 惜 お しく覚え、 且 かつ は 栖 すみか もなかりし 事 こと の 口惜 くちお しさに、 楠木 くすのき に 変 へん じて 度々 たびたび 障碍 しょうげ をなし、 妨 さまた げ 侍 はべ りしかば、 大師房 だいしぼう 、 此 こ の木を切り、地を 平 たいら げて、「 明 あ けなば」と 侍 はべ りし 程 ほど に、 其 そ の 夜 よ の 中 うち に 又 また 、先のよりも 大 だい なる 楠木 くすのき に 変 へん じて 侍 はべ りしを、 伝教房 でんぎょうぼう 、 不思議 ふしぎ かなと 思 おも ひて、 結界 けっかい 封 ふう じ 給 たま ひし 上 うえ 、「 阿耨多羅三藐三菩提 あのくたらさんみゃくさんぼだい の 仏 ほとけ 達 たち 、 我 わ が立つ 杣 そま に 冥加 みょうが あらせ 給 たま へ」と 申 もう されしかば、心は 猛 たけ く 思 おも へども 力 ちから 及ばず、 現 あら はれ 出 い でて、「 然 しか らば、 居所 いどころ を与へ 給 たま へ」と 愁 うれ ひ 申 もう せしに 依 よ て、 近江国 おうみのくに かが山、 大師房 だいしぼう が 領 りょう なりしを得たりしかば、 然 しか らばとて 彼 か の山に住み 替 か えてありし 程 ほど に、 桓武 かんむ 天皇、 又 また 勅使 ちょくし を立て 宣旨 せんじ を読まれしかば、 王土 おうど にありながら、 勅命 ちょくめい さすがに 背 そむ き 難 がた かりし 上 うえ 、 天使 てんし 来 きた りて追ひ 出 いだ せしかば、 力 ちから 無くして 又 また 、 此 こ の山を迷ひ 出 い でて、立ち 宿 やど るべき 栖 すみか もなかりし 事 こと の 口惜 くちお しさに、風に 託 たく し雲に乗りて、 暫 しばら くは浮かれ 侍 はべ りし 程 ほど に、 時々 ときどき 其 そ の 怨念 おんねん の 催 もよお す時は、 悪心 あくしん 出 い で 来 き て、 大風 おおかぜ と 成 な り 旱魃 かんばつ と 成 な りて、 国土 こくど に 仇 あだ を 成 な して心を 慰 なぐさ み 侍 はべ りき。 然るに仁明の御宇かとよ、嘉祥二年の頃より此の所に住み初めて侍るが、斯かる賢王に遇ひ奉りて侍る時、我等が威勢も心に任せ侍る也。 其の故は、王威緩ければ民の力衰へ、仏神の加護薄ければ国土衰弊する事にて、愚王に遇ふ時は、童が心も言ふ甲斐なくなり、賢王・賢人の代に遇ふ時は、我等が通力も侍るなり。 昔物語は静かに申して聞かせ参らせん。 先ず一献」とて酒を勧む。 頼光宣ひけるは、「童子にておはします上は、児にてこそおはしませ。 御先には争か盃は取るべき。 先ず先ず」と宣へば、童子打ち笑ひて、「この御詞にこそ臆め侍れ」とて、盃を取りて三盃して、「御詞に付けて」とて頼光に注す。 受けて飲まんとするに、生臭くむつけき事限りなし。 然りけれども、鳥滸の気色もなく静々と飲みて、保昌に注されぬ。 保昌飲む由して捨てられぬ。 然る所に老翁、「山臥等、御酒は給はり侍りぬ。 我等が中に、山臥の死筒とて用意したる物侍り。 此の御前にて取り出さでは、いつの時をか期し侍るべき」とて、笈の中より筒取り出して勧めけり。 飲めば取り出で〳〵、我劣らじと強ゐたりけり。 今は日の暮るるを相待つ所に、眷属の鬼共、「此の人々を謀らん」とや思ひけん、容貌美麗なる女房達に変じて、襲衣どもを着飾りて、五、六人許り打ち連れて、山臥達の前に来れり。 何といひ遣りたる事はなくて、形作りを頻りにしけり。 陽台の朝の雲に袖を重ね、洛浦の神皇に交はりを結ぶかとぞ覚えし。 保昌宣ひけるは、「山臥修行者の居所に、女房達の来れる事、心得難し。 速やかに罷り出でよ」と宣へども、耳にも聞き入れずして居けるを、頼光、目を暫くも放たれず、睨みて守られければ、面映く漫ろわしげに成りて、漸く退きのきけるが申しけるは、「此の人々の中には、此の山臥ぞ、故ある人と見え給ふ。 眼居の難しさ、鬱悒し。 いざや」とて、各が本体を現はして、掻き消つ様に逃げ走り失せにけり。 打ち続きて、又、此の変化の物共、様々の渡り物をぞしける。 面もとりどりに姿も様様也。 或はをかしき有様なる物もあり、或は美しき気色したる物もあり、恐ろしく心も動きぬべき物もあり。 筆にも書き記し難く、詞にも言ひ知らぬ様なれば、各是を見られけるに、頼光、座席居繕いて、面も振らず目をも放たず、暫く守りておはしければ、眼の底より五色の光ぞ出でたりける。 変化の物共申しけるは、「あの山臥は見らるるか。 眼の光、顔の荒立ち、常の人には変はりて見ゆ。 当時、都に遍く人々の恐れ戦くなる源頼光とかや申す人こそ、眼の底は光るなれ。 それならでは、斯かる人も又ありける物かな。 我等が類の、欺き嬲るべき人にはあらず」とて、後ろ様に慌てて東西に走り散り、巌石に倒れ伏してぞ逃げ退きける。 室を構へて、都鄙の老少を籠め置く。 此の児の左右を見れば、十羅刹女、諸々の天菓を置きて、外に種々に形を現はして守護す。 又、薬師の十二神将は、この格子の外に形を現はして守り給ふ。 又、不動の炎光の如くに火燃ゑ上がりたる猿一疋ぞ立ちたりける。 是を見て頼光、「これは如何なる事にや」と尋ね給へば、白翁答へけるは、「此の児、法華経を読誦し奉る功によりて、十羅刹、此の所に来臨して擁護し給ふ也。 又、十二神将は此の児の師匠、七仏薬師を行じ給ふ故に、守護して眷属の十二神来りて守り給ふ。 又、猿の様なる物はよな、あれこそ叡山早尾権現よ。 かの本地は大聖不動明王なれば、生々して加護の誓ひといひ、猿は又、山王の使者、彼此、両形を現はして守り給ふ也」とぞ宣ひける。 頼光は、此の白翁元より怪しく思はれけり。 「誠に権現の加護にあらずば、天魔の凶悪を鎮め難し。 偏に是、年来日来、憑みを懸けたる霊神の化現かや」と感喜相並びければ、保昌と窃かに目を見合ひて頷き給ひけり。 此の児と申すは、前の老女が語らひつる慈恵大師の御弟子、御堂の入道殿の御子息是也。 ここを立ち退きて、南の方を見れば、軒近き花橘の匂ひは風懐かしく、昔の袖の香やらんと覚え、大荒木の森の下草、鬱悒きまでに繁りあへる。 絶え絶えに常懐かしき姫百合の花の顔も珍しく見えけるに、大きなる桶ども数多据ゑ並べて人を鮨に仕置きたり。 其の匂ひ血臭く生臭くして、見るもかわゆき事限りなし。 傍らを見れば、古き死骸は苔生し、新しき死骸は血付きて、塚の如く山の如し。 西の方を見れば、郡梢雨に染んで梧楸の色紅なり。 百菓露結びて、蘭菊の花芳し。 我、松虫とはなけれども、心引かるる声々や。 ここに又、唐人数多籠め置きたり。 これを見るに、「我が朝にも限らず、天竺・震旦の人まで獲り置きけるよ」と見れば、不便とも言ふ許りなし。 北の方には、雪に埋む岸、松の嵐を待つ色、霜に飽ける庭の菊、秋を残せる匂ひ、何れも目留まりにけり。 只今は鬼共多くはなけれども、十余人ぞありける。 その外は様々に形を変じて、体を化けたる物共多くぞありける。 目も奇に覚えて、本の廊に帰りて、この有様を郎等共に語られけり。 童子、鉄石の室を強く構へて、其の中にぞ臥したりける。 上臈・女房達四、五人置きて、「腕摩れ」などと下知してぞ寝たりける。 何にしても此の戸を開くべき様なかりけるに、老ひたる・少き、二人の僧、「年来の行功只今也。 本尊界会、穴賢穴賢。 本誓誤り給ふな」とて袈裟の下にて印契を結びて、暫く祈念し給へば、固く閉ぢたりつる鉄石、朝の露と消え、由々しく見えつる寝所は一時に破れにけり。 各 ( おのおの ) 打 ( う )ち 入 ( い )りて 見 ( み )ければ、 昼 ( ひる )こそ 童子 ( どうじ )の 形 ( かたち )に 変 ( へん )じけれども、 夜 ( よ )は 本 ( もと )の 体 ( てい )を 顕 ( あら )はして、 長 ( たけ ) 五丈 ( ごじょう ) 計 ( ばか )りなる 鬼 ( おに )の 頭 ( かしら )と 身 ( み )は 赤 ( あか )く、 左 ( ひだり )の 足 ( あし )は 黒 ( くろ )く、 右 ( みぎ )の 手 ( て )は 黄 ( き )に、 右 ( みぎ )の 足 ( あし )は 白 ( しろ )く、 左 ( ひだり )の 手 ( て )は 青 ( あお )く、 五色 ( ごしき )に 斑 ( もどろ )きて、 眼 ( まなこ ) 十五 ( とお あまり いつつ )、 角 ( つの ) 五 ( いつ )つぞ 生ひ ( おい )たりける。 是 ( これ )を 見 ( み )るに、 偏 ( ひとえ )に 夢 ( ゆめ )の 心地 ( ここち )して 言 ( い )ふ 許 ( ばか )りなき 有様 ( ありさま ) 也 ( なり )。 然れども、各心を静めて、寄りて打たんと早りけるに、若僧宣ひけるは、「大なる物を、其の太刀にて相違無く斬り果せん事、不定也。 若し起き上がる事もあらんは、由々しき大事に成りなんず。 然らば、我等四人して此の鬼王を取って押さへたらば、各同心に頭一所を決めて打て」とぞ教へられける。 「此の儀、尤も然るべし」とて四人の客人、手足に取り尽きて押さへたり。 鬼王、頸計りを持ち上げて、「麒麟無極めはなきか、邪見極大めはなきか。 此等に謀られて、今は斯うと覚ゆる。 敵打てや」と、 千声百声 ( ちごえももごえ ) 叫 ( さけ )びければ、 頸 ( くび ) 切 ( き )りたる 鬼共 ( おにども )、 頸 ( くび )もなくて 置 ( お )き 上 ( あ )がりて 走 ( はし )り 廻 ( まわ )り、 手 ( て )を 広 ( ひろ )げて 踊 ( おど )りけり。 二人 ( ふたり )の 将軍 ( しょうぐん )、 五人 ( ごにん )の 兵 ( つわもの )、 同心 ( どうしん )に 鬼 ( おに )の 頸 ( くび )を 打 ( う )ち 落 ( お )つ。 此 ( こ )の 鬼王 ( きおう )の 頸 ( くび )、 天 ( てん )に 飛 ( と )び 登 ( のぼ )りて 叫 ( さけ )び 廻 ( まわ )る 事 ( こと ) 夥 ( おびただ )し。 頼光 ( よりみつ ) 急 ( いそ )ぎ 綱 ( つな )・ 公時 ( きんとき ) 二人 ( ふたり )が 兜 ( かぶと )を 請 ( こ )ひて、 我 ( わ )が 兜 ( かぶと )の 上 ( うえ )に 重 ( かさ )ねて 着給 ( きたま )ひたりけり。 人々 ( ひとびと ) 是 ( これ )を 見 ( み )て、「こは 如何 ( いか )なる 事 ( こと )ぞ」と 見 ( み )る 所 ( ところ )に、 鬼 ( おに )の 頸 ( くび ) 舞 ( ま )ひ 落 ( お )ちて、 頼光 ( よりみつ )の 兜 ( かぶと )の 上 ( うえ )に 喰 ( く )ひ 付 ( つ )きぬ。 頼光宣ふ様、「眼を抉れ」と宣へば、綱・公時つと寄りて刀を抜きて、左右の眼を抉りたりければ、鬼主の頸死にけり。 其の後、甲を脱ぎて見たりければ、甲二つを喰ひ通してぞありける。 此の時、四人の人々申されけるは、「この程の御名残忘れ難く侍るものかな。 宣旨を蒙り給へる将軍達にておはしませば、打ち平らげ給はん事は左右に及ばねども、由々しき大事の侍りて、我等御供しつる也。 今は是より暇を申して罷り帰るべし。 当帝をば、世の常の王とは思ひ給ふべからず。 昔より今に至るまで、賢王数多ましますと言ひながら、衆生化度の方便によりて、粟散の王とは生じ給へども、慈尊下生たるに依て慈氏の化儀を施し給ふ。 然れば、近臣百官の為に因を結び、遠客諸人に及ぶまで恵みを与ゑましませば、本師釈尊の遺勅、誤り給はざるにあらず。 当来、導師の教、誠に頼み有るべし。 晴明と申すは、秘密真言の棟梁、竜樹菩薩の変化也。 昔は白道沙門と現はれ、今は晴明といふ博士に生まれたり。 陰陽の秘術を強ちに執し思されしかば、二度、指の神子と成りて、斯かる賢王の御代に仕り給ふ也。 頼光も、我が身を軽く思ひ給ふべからず。 致頼・頼信・維衡・保昌とて四人の名将おはしませども、此の人数にも差し抜けて、洛中洛外の上下に恐れ敬はれ給ふ事、すなわ則ち五大尊の其の中、大威徳の化生にてまします、其の故也。 然れば、悪魔降伏も世に越ゑ、盗賊追討も人に勝れ給へる也。 四人の殿原を人、四天と呼ぶ事、其の故有る物をや。 綱は多門天、公時は持国天、忠道は増長天、季武は広目天、共に天下を哀愍し、禁中を守護し給ふ。 翁が言葉を疑ひ給ふ事勿れ」と語られければ、是を聞く貴賤上下の輩、掌を合はせけり。 さてこそ、一条の院をば権者と仰ぎ奉りけれ。 又、頼光をば二生の人は恐れ申しけれ。 保昌宣ひけるは、「先世の契り悟り易く、今度の御名残忘れ難く、詞にも尽くし難く、筆にも註し難し。 同じくは御形見を給ひて、且は後日の思ひ出にもし、且は末代の物語にも」と申されければ、「尤も」とて、翁先づ白き浄衣を脱ぎて保昌に奉る。 保昌、又是を給はりて、上矢の鏑を抜きて老翁に奉る。 山臥は柿の衣を脱ぎて保昌に奉る。 保昌は佩き給へる太刀を解きて山臥に奉る。 老僧是を見給はりて、御形見共取り違ゑ給ふが羨ましく侍るに、「摂津守殿居させ給へ。 形見換ゑ申さむ」とて、懐より水精の念珠を取り出して頼光に奉らる。 其の時、頼光兜を脱ぎて、老僧重ねらる。 若僧、又金の錫杖を取り出して、頼光に奉りしかば、頼光は腰の刀を若僧に奉りて後、頼光、「各々の御名をば誰と申し奉る。 御在所は何方にはおはします」と尋ね申されければ、老翁宣ひけるは、「我は住吉の辺りの旧仁なり」とて幻の如くにて失せ給ひぬ。 山臥は、「熊野山那智の辺りに侍る也。 名をば雲滝と申す」とて、是も掻き消つ様に失せられけり。 老僧宣ひけるは、「此の僧は八幡の辺りに侍るが、摂津守殿へ御祈祷の為に参りたり」とて雲煙の如くにて失せられけり。 若僧は、「延暦寺の辺りに住する沙門なり」とて、何れも皆失せられにけり。 倩此の心を案ずるに、「是併せて年来憑みを懸け、志を運びし霊神達、且は鎮護国家の誓ひにより、且は利益衆生の願ひに任せて、我等を守護し給ひけるよ」と弥頼もしく忝く思ひ奉る事、限りなし。 凡そ神の威を顕はす事は、是、人の崇め奉るにより、人の運の全うする事は、又、神の助けにあらずや。 例へば、響きの音に応ずるが如く、月の水に宿るが如し。 「感応満ち交はる事、世の常の習ひ」と言ひながら、著しき事、上古にも末代にも例少なき事とぞ覚えし。 今は本の七人の輩と鬼王の取り置きし人々相共に、大江山の麓、生野の道の程に仮庵作りて、忠道を使ひとして、急ぎ迎への馬・人催して来べき由、申し遣はす。 児、又女房共の親類・眷属に至るまで、此の使ひ告げ廻りたりければ、彼の家々、騒ぎ悦び罵る事限りなし。 嬉しきにも辛きにも先立つ物は涙也。 輿車・馬・人、思ひ思ひに大江山へと急ぎければ、霞を隔てつる生野の道も遠からず、呆れ惑へり。 或は妻に会ひ夫に会ふて、夢かや夢にあらざるかと疑ひ迷へる人もあり。 又、親を尋ぬるに親もなく、子を尋ぬるに子もなき類、悲しみを抱き、歎き合ふ事限りなし。 斯くて有るべき事ならねば、各々家路へ急ぎけり。 二人の大将軍は其の姿を改めず、柿の衣の上に鎧を着、或は頭巾を眉半ばに責め入れて、兜を仰け、額に着なして都へぞ入られける。 道々、所々、山々、関々に、是を見る者、数を知らずぞ有りける。 今日既に摂津守頼光・丹後守保昌、鬼王の頸を随身して都へ入る由、聞こへしかば、彼の郎等共、馳せ来りて両将の軍兵大勢也。 見物の道俗男女、幾千万といふ数を知らず。 人は踵を欹て、車は轅を廻らす事を得ず。 「毒鬼を大内へ入るる事有るべからず」とて、大路を渡されければ、主上・上皇より始め奉りて、摂政・関白以下に至るまで、車を飛ばして叡覧有りけり。 鬼王の頸といひ、将軍の気色といひ、誠に耳目を驚かしけり。 事の由を奏しければ、不思議の由、宣下有りて、彼の頸をば宇治の宝蔵にぞ納められける。 御堂入道大相国、御参内有りて申されけるは、「上古より末代に至るまで、代々朝敵を打ち靡くる輩多しと雖も、斯かる希代の勝事に及ぶ事、先蹤承り及ばず。 早速に勧賞行なはるべき」由、取り申されしかば、丹後守保昌、西夷大将軍に成りて、筑前国を給はる。 摂津守頼光は東夷大将軍に成られて、陸奥国をぞ給はりける。 「凡そ大国には、一度朝敵を平らげつれば、半国を給ひて其の賞七世に絶えず、と見たり。 然して我が朝、本より小国なり。 一国の受領は半国の賞にも越ゑたるをや。 況や、東西の将軍の宣旨を加ふる事、莫大の勧賞たりと雖も、誰人が支へ申すべき」と九重の上下、一同に罵りけり。 葬を鬼唇に待ち、骸を魔腹に期しき。 深洞に籠められて東西を知らず。 幽窟に閉じられて日月を見る事を得ず。 例へば、空を飛ぶ鳥の羽を抜かれ、水に泳ぐ魚の鰭を削がれたるに似たり。 然るを今、両将軍の威力に引かれて魔王の悪害を免る。 赤子の母を得たるよりも過ぎ、早苗の雨に遭へるにも越ゑたるをや。 悲しみ悦び、相並び、手の舞ひ、足の踏み所を失ふ。 願ふ所は柔遠の恵みを垂れ、好隣の義を願ひて我等を本土へ許し帰せ。 且は此の珍事によりて明王の威験を遠方に伝へ、両将の面目を異朝に施さん」と申したりければ、「申し上ぐる所謂無きにあらず」とて、「九国に下し遣はして、便風を待つべし」と定めければ、彼等、筑紫の博多へぞ下りける。 唐人、神崎の津に下 …… …… 「万機の政務を執り、武を持てば、諸国の乱逆を打ち鎮めんが為なり。 速やかに致頼・頼信・維衡・保昌等を召されて、此の旨を仰せ含めらるべし」と定め申しければ、即ち四人の武士を召して此の由を仰す。 各申されけるは、「誠に弓箭の道には、偏に朝敵を平らげんが為也。 夫れ、仰せを辞し中すに及ばず。 五材四義に忠を尽くし、左車右馬の謀を巡らすべしと雖も、是は姿を見ざる天魔、声を聞かざる鬼神也。 合戦を遂ぐる事、人力及び難き」由をぞ申しける。 爰に閑院の右大将実見の卿、其の時、中納言にておはしけるが、申されけるは、「斯かる変化の者も、王土に跡を留めながら、争か天気に従はざるべき。 摂津守頼光・丹後守保昌等に仰せられて、召さるべき」由を申されければ、諸卿一同して両将を召されぬ。 「我が朝の天下の大事、是に過ぐべからず。 各武勇の志を励まして、速やかに凶害の輩を鎮むべし」と仰せ含められしかば、各畏みて罷り出でらる。 煙霞は東西に心なけれども、風に遇ふ時は忽ちに飛行す。 是、則ち順の徳なり。 人臣は遠近に及びなけれども、命を含む時は馳走す。 是、則ち忠の至るなるかなや。 両輩、各宿所へ退出して、綸言背き難かりし間、思ひ思ひに出で立ちけり。 別れを惜しむ …… 【絵巻の原本の現状:上巻 第二段】 …… 気色也。 各是を見て、疑ひ無く変化の物と思はれければ、太刀を抜き、弓を引きて向かふ所に、白翁進み出でて着物を脱ぎ掛けて裸になりて、手を合はせて言ひけるは、「恐れ怪しみ給ふ事勿れ。 各を待ち奉るなり。 其の故は、翁は子供六、七人持ちたりしを、一人ならず鬼王に取り失はれて、此の歎き如何許りとか思ひ給ふ。 彼の山臥は同行数多取られ、此の若僧は弟子・師匠を失ひて歎き給へば、両将宣旨を給はりて、鬼城へ尋ね向かひ給ふ由を伝へ承る間、悦びをなして、我等も御供仕りて、心の行く方と彼の所へ相向かはんが為なり」と語り中しけるに、頼光宣ひけるは、「斯く宣へども、全く心を許し奉るにはあらず。 なれども、我等は宣旨を頚に掛けて侍れば、我等が身には何条事かあるべき」とて、太刀を収め、弓を緩しぬ。 各用意の飯・酒ともに至極行なひて、鬼城を求め出すべき様を計らふ所に、白翁申されけるは、「其の姿どもにては、尋ね給はん事叶ふべからず。 縦へ兄弟なりとも、争か容易く会ふ事を得べき。 姿を悄して様を変へて尋ね見給へ」とて、唐櫃の中より柿衣・柿袈裟・頭巾等取り出して、とりどりに笈といふ物九丁、同じく櫃中より取り出して、彼の笈に甲冑 …… 【絵巻の原本の現状:上巻 第三段】 …… たり。 頭には黒髪もなく白髪なるが、顔譬へむ方なし。 色々様々に血の付きたる物を洗ひて木の枝に掛け、岩の角等に干し掛けたり。 人々是を見て、「疑ひ無く変化の物よ」と思ひて、忽ちに命を失ひてんとする所に、女、手を合はせて、「我、更に鬼神・変化の物にあらず。 本はよな、生田の里の賤の女にて侍りしが、思はぬ外に、鬼王に捕られて此の所に来て侍りし時、『骨強く筋高し』とて捨てられしが、この器量の者とて、斯かる着物を洗はせらるゝなり。 古里も懐しく、親しき者も恋しけれども、春行き秋闌けて、既に二百余廻りの季月を重ねたり。 さても此の人々は、如何にして是へはおはしぬるにか。 速やかに疾く帰り給へ。 此の所は遥かに人間の里を離れたり。 齢しかも盛りなる人々也。 いと悲しくこそ覚ゆれ」と申しければ、頼光問ひ給ひけるは、「此の山は大江山の奥也。 人間を離れたるとは何事ぞ」と宣へば、老女答へけるは、「是へおはしつる道には、岩穴のありつるぞかし。 其の穴より此の方は、〈鬼隠しの里〉と申す所なり」とぞ申しける。 保昌、賤の女にまた問はれけるは、「さて、 此 ( こ )の 所 ( ところ )の 有様 ( ありさま )、 詳 ( くわ )しく 語 ( かた )り 申 ( もう )せ。 王 ( おう )の 宣旨 ( せんじ )を 蒙 ( こうむ )りて 尋 ( たず )ね 来 ( こ )れる 也 ( なり )」と 宣 ( のたま )へば、「さてはありの 儘 ( まま )に 申 ( もう )すべし」とて、「 鬼王 ( きおう )の 城 ( じょう )は 此 ( こ )の 上 ( かみ )に 侍 ( はべ )る 也 ( なり )。 八足 ( はっそく )の 門 ( かど )を 立 ( た )てて〈 酒天童子 ( しゅてんどうじ )〉と 額 ( がく )をば 書 ( か )きたる 由 ( よし )をぞ 聞 ( き )き 侍 ( はべ )りし。 彼 ( か )の 亭主 ( ていしゅ )の 鬼王 ( きおう )、 仮 ( かり )に 童子 ( どうじ )の 姿 ( すがた )に 変 ( へん )じて 酒 ( さけ )を 愛 ( あい )する 也 ( なり )。 九重 ( ここのえ )の 内 ( うち )より 公卿 ( くげ )・ 殿上人 ( てんじょうびと )の 姫君 ( ひめぎみ )・ 北の方 ( きたのかた )、 貴賤 ( きせん ) 上下 ( じょうげ ) 取 ( と )り 集 ( あつ )めて、 料理包丁 ( りょうりほうちょう )して 喰ひ物 ( くいもの )とす。 此の頃、都に晴明と申すなる、泰山府君を祭り給ふによりて、式神・護法、隙なく国土を廻りて守護し給ふ故に、都より人をも取り得ずして、帰る時は漫ろに腹を据ゑかねて、胸を叩き歯を食ひ縛りて、眼を怒らかして侍る也。 徒然なる儘に、笛を吹きて遊び給ふ。 不思議なる事の侍るは、天台座主慈恵大師の御弟子御堂の入道殿の御子の幼き児を取りて、鉄石の籠に込め奉る所に、彼の児、他念無く法華経を読み奉り給ふ御声、暁様には是まで聞こへ侍るぞや。 斯様に生きながら魔道の報いを受けて侍れば、其の罪業を悲しく思ふに、『此の御経の御声を承るにこそ、罪障も消滅するらん』と忝く侍る。 また、慈恵大師の手づから自ら行なひ給へばや、彼の一乗守護の為に、諸天善神、雨の如くに集まり、雲の如くに来りて、夙夜不断に修行し給へるに、鬼王も持ち扱ひて侍る」由をぞ語りける。 【絵巻の原本の現状:上巻 第四段】 賤の女の詞に随ひて、此の所を少し歩み登りて見れば、誠に八足の大門あり。 門の柱・扉は美しく殊勝にして、辺りも輝く程也。 四方の山は瑠璃の如し。 地は水精の砂を撒きたるに似たり。 各これを見るに、石室霜深くして、迦葉の洞に来れるかと疑ひ、蘿径雪浅くして、懺悔の庭に臨めるが如し。 頼光、綱を召して、「門の内へ入りて案内聞け」と宣へば、綱、忽ちに樊噲が思ひをなして、唯一人門の内へ入りて、寝殿と思しき所へ差し回りて、「物申さん」と高らかに申しければ、内より気高く由々しき声にて、「何物ぞ」と答へて出でたる人を見れば、一丈計りなる大の童の練貫の小袖に大口踏み包みて、笛持ちたる手にて簾掻き上げて、「誰人ぞ」と問ふ。 眼居・言柄、気高く由々しき気色にてぞ有りける。 綱少しも騒がず、「諸国修行の者、山臥ども十余人侍るが、道に踏み迷ひて是まで参るなり。 御宿給はらん」と申しければ、童子、「然らば、惣門の際なる廊へ入れ奉れ」とて、案内者の女房副へたり。 此の女房、綱が前に立ち、ゆくゆく袖を顔に当ててさめざめと泣きければ、綱、事の故を問ふに、女房答へけるは、「御姿を見奉るに、修行者にこそおはしますめれ。 是へおはしなん後、生きて古郷へ帰る事あるべからず。 愛しく悲しくこそ思ひ奉れ。 我は是、土御門の内府宗成卿の第三の女なり。 過ぐる秋の頃、月を詠じし程に敢なく獲られて、心憂き目をば見る也。 少しも心に違ふ物をば、果物と名付けて座を変へず喰らひ侍れば、目の前に見るも心憂し。 今日や身の上にならむずらんと思ふに、雪山の鳥の心地して、悲しく心憂く侍る」と申す。 斯かるを聞くに、由々しき事を聞くものかなと思へども、然らぬ体に持て成して、門の際なる廊へ人々をも入れ奉りぬ。 【絵巻の原本の現状:上巻 第五段】 其の後、度ばかり有りて、容顔美麗の女房達、円座十枚持て来て、此の人々に敷かせけり。 銀の瓶子の大やかなるに酒入れ、金の鉢等に何の肉やらん、いと高く盛り上げて持ちつつ来り。 彼の唐土の張文成といひし人が仙窟に至りて、神女に会ひ慣れけんも、斯くや有りけんとぞ覚えける。 頼光 よりみつ ・ 保昌 やすまさ 、同じ 詞 ことば に、「同じくは、 亭主 ていしゅ の 御出 おい であらんこそ 面白 おもしろ く 侍 はべ るべけれ。 我等 われら 許 ばか りは 珍 めずら しからぬ 同行 どうぎょう 共 ども にてある」と言はれければ、 暫 しばら くありて 亭主 ていしゅ の 童子 どうじ 出 い で 来 きた り。 丈 たけ 一丈 いちじょう 計 ばか りなるが、 眼居 まなこい ・ 言柄 ことがら 誠 まこと に 畏 かしこ く、 智恵 ちえ 深 ぶか げにて、 色々 いろいろ の 小袖 こそで に、白き 袴 はかま に 香 こう の 水干 すいかん をぞ着たりける。 美しき 女房 にょうぼう 達 たち 四、五人に、 或 あるい は 円座 えんざ 、 或 あるい は 脇息 きょうそく 持たせて、 辺 あた りも 輝 かがや く 計 ばか りに 由々 ゆゆ しくぞ見えし。 童子 どうじ 、 頼光 よりみつ に問ひ 申 もう されけるは、「 御 おん 修行者 すぎょうざ 、 何方 いずかた より 何 いか なる 所 ところ へとて 御出 おい で 候 そうら ひけるぞ」と問ひければ、答へられけるは、「諸国 一見 いっけん の 為 ため に 罷 まか り 出 い でたるが、 漫 すず ろに山に 踏 ふ み迷ひて、 是 これ まで 来 きた る」 由 よし をぞ答へられける。 童子 どうじ 、 又 また.

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