好きなアーティストの歌を聴き惚れていた仕事終わり、いわゆる「サンセット」に、不快なの広告が流れてきた。 「〇〇小学校のAがBをイジメています」と実名をさらした下手な歌が流れて驚く。 どうしようもない不気味さ。 しかし、すべて見てしまった。 広告主は「あべりょう」。 まがいのチンケな広告を打つので有名な奴だ。 その広告は「正義の広告」と自称し、開会式の朝に、イジメの加害者と被害者を実名で晒したうえで、加害者を社会的に抹殺し被害者を「解放」すると告げている。 ヒーロー面だ。 最後に、「イジメの相談はここへ」とばかりに行政官庁のイジメ対策フリーダイヤルを掲げているのが憎たらしい。 結局、他人任せかい! 多くのインテリは、あべりょうなど掘り下げず、愉快犯としてアカンベーで無視しとけばいい、と思うだろう。 実際、今回の広告で出てきた「〇〇学校」は廃校しており、ならぬフェイク広告だったことが明らかになっている。 しかし、ここでひとつ立ち止まっておこう。 そもそもこのような晒しが、あるいは簡単に行われるというのが昨今の社会的現状だ。 だから、私たちは戦慄しつつもすべて見てしまうし、「実名晒しもありうることだ」と思い、実際に学校があるかないか調べ、その次には「なぜはあべを規制しないのか?」と怒る。 ほぼテロじゃないか、こんなもの、と。 このような出来事を無視していいとは思えない。 これに解釈を与える哲学者・文学者・者は少ないだろう。 が、筆者は人文系の学問を学んだ学生(と言っても、学部卒)だ。 「あべりょう」に言葉を与えることは、「できなければならないこと」だと思う。 その努力を欠いて、もうひとりのアベたる氏の批判などしていても、「あーあー、こいつらは自分たちがわかることしかしゃべらないんだな」と思われるだけだ。 無論、専門家とはそういうものだが。 間違ってもかもしれない。 が、早速、あべりょうとその反応への解釈をはじめよう。 この事件はたぶん国民のほとんどが憤怒を掻き立てたものだろう。 そして、ちゃんと明るみに出てよかったと安堵する類のものだし、安心して糾弾できるものだ。 実際、教員間イジメがはじまってから、当校での生徒間イジメも急増したとワイドショーで聞いた。 ここには、怒りはあっても、不気味さはない。 一方、同じくイジメを明るみにしようとする「正義の広告」は、どうも、不気味だ。 だから、ぜんぶ見ちゃった。 にはそういう意見がちらほらある。 規制せよという意見もある。 この場合の怒りはどちらかと言えば、あべりょうに向けられたものだ。 このようなネット私刑(リンチ)を奇しくも公の放送たるでやるのは許せないということだろう。 この意見に私も賛成ではある。 が、問題を、この両者を分けるのは何かという点に絞ろう。 一方の事件を私たちは早口で論じ、他方の事件には顔をしかめる。 その顔を、謎の暴力に直面したときの自分たちの顔を、見てみよう。 なに、お化け屋敷に入った芸人の顔ドアッブのほうが、お化けよりも怖い昨今、自分の顔を見てみるのもまた一興だ。 少なくとも私はそうだし、それ以外の感情が思い付かない。 せいぜい怒る人がいるくらいだ。 そんな「不気味」について、ある御仁がこういっていた。 「不気味」という感情は、一度は抑圧していた(忘れてしまったり見ないことにしていた)「慣れ親しんだもの」が再び戻ってきたものに抱くんだ(幽霊とかね)、と。 その御仁、生まれの家でという。 昔は医学界でけっこう幅を利かせてたやつだが、いまや人文系の人にしか顧みられることはなくなった。 でも、ちゃっかりいいことを言う。 もしあべりょうが「全面に露呈させたもの」を、私たちが一度も見たことがなかったり、知らなかったりすれば、「なんじゃこりゃ?意味不明」で終わり、そのままスキップしていたことだろう。 しかし、私たちはイジメがあることも知ってるし、ネット上で実名晒しが横行していることも知っている。 あべりょうが打ち出したことはぜんぶ知っていた。 でも、イジメも実名晒しも見ないふりをしていた。 まさか自分にそれが突きつけられるとは思えない。 その虚を衝かれたから「不気味」なのかもしれない。 じゃあ、教員間イジメ報道にも「不気味」さを感じていいはずだ。 学校名が晒された時点で、ほぼ実名晒したようなものだからね、あれ。 でも、そこに「不気味さ」は感じなかった。 なんならワイドショーでなんかが大声で論じてた。 そして、怒りを表していた。 たぶんどんな政治的立場の人もみんな怒ってたんじゃないかね、ありゃ。 でも、あべりょうといったい何が違ったんだろう。 一番の違いは、あべりょうの広告は自分たちで真偽を確かめなくちゃならなかったということだ。 だから、「あべりょうの広告はデマでっせー」とで触れ回る奴が出てくる。 それに触れて、なーんだって安心する。 私もした。 一方、の事件は、ワイドショーでやられている以上、ほんとうのことなんだろう。 真偽を確かめる必要はない。 いくら流行中だからって、わざとイジメ事件をでっちあげるほど、テレビも、落ちぶれちゃいないわな。 でも、先生いわく、「現実による吟味」をしなくていいのは、「童話世界」のことだ。 たとえば、アニメで的に人形や動物がしゃべっても「不気味」とは思わない。 「童話世界」のことだからだ。 でも、ほんとうに人形や動物がしゃべったら(いや、の世界ではしゃべるんだよ、ただ近代人たる私たちはそれを「抑圧」したのだ)、めちゃくちゃ「不気味」だわな。 先生はこうおっしゃる。 アイボっちゅーロボットでっせー!」という情報が来たら、なーんだって安心する。 だから、ワイドショーは、やっぱり「童話世界」の出来事なんだ。 私たちが「現実による吟味」をしなくてもよい世界。 そして、イジメが報道され実名晒しが起こっても、基本的に私たちとは関係ない世界の話なんだ。 だから、その報道が急に自分に向けられたら(つまり、「童話世界」に自分が入れられたら)びっくりするわけだけど。 (の「おれに関する噂」がそんな話。 )) 問題は、私たちは日々、実名晒しとかイジメの制裁とかを見ないでいる。 つまり、「抑圧」している。 その「抑圧されたもの」が「回帰する」ことによって「不気味」という感情が出てきたことだ。 ただし、それがワイドショー的な「童話世界」の話だったら、なんとも思わないでいられる。 だけど、そこに「童話世界」が抜けて、そのまま目の前に突き付けられたら? それは怖い。 あべりょうというか、この社会の一個人にはこんなことまでやってしまうのかと思うが、たしかにやってしまいそうだと思う自分もいる。 そして、いつ自分が標的になるかわからない、あるいは、なってるかもしれないという恐怖も。 しかし、私たちはこの「不気味」さを解消することができない。 あべりょうが誰かわからない。 ほぼすべてのテロリストと同様に、あべりょうとの議論・対話は残念ながら不可能だ。 だから、怒れる人々はか国家はあべりょうの広告を規制しろと言うか、こんな広告に騙されないように日本語話者を教育する必要があると言うか、どちらかの選択肢しか取れないでいる。 無論、私もその一人だ。 だが、無意味な解決策の前により広範なを持とう。 いや、それが何の役に立つかは知らんし、興味もない。 だが、理解せねばならないのだ。 二人の哲学者が「現在の権力とはいかなるかたちか?」と仰々しく問い、21世紀が始まる間際に、世界のインテリ連中を熱狂の渦に巻き込んだ本がある。 その名も『〈帝国〉』だ。 イタリア と カ の共著である。 だが、彼らの文章を少し改変すれば、あら不思議、いままで現在の権力形態 〈帝国〉 を論じていたのに、あれよあれよと我らが「あべりょう」を論じる文章になっちまうじゃねーか。 強者から弱者へのイジメという暴力にあたって、あべりょうは「正義の広告」で被害者を解放するとのたまわっている。 そして、正義面で「待っててくれ」と言い、まるで被害者からの救済請願があったかのようにふるまう。 そう、あべりょうはヒーローさ。 そうすると、とハートの次の一文(一部改変)が新鮮な輝きを放ちはしないか。 「〈あべりょう〉による介入はすべて、すでに存在するイジメのただなかに巻き込まれたひとつまたはそれ以上の陣営の請願を受けて遂行される。 〈あべりょう〉はそれ自身の意思にもとづいて生まれるのではない。 そうではなく、むしろ〈あべりょう〉は、それが発揮するイジメ解決能力にもとづいて存在すべく呼び出され、法的に構成されるのだ……したがって、〈あべりょう〉の取り組むべき最初の仕事はそれ自身の権力を支える合意の領域を拡張することである」(『〈帝国〉』一部改変) これはとハートの一文の〈帝国〉を「あべりょう」に、「紛争」を「イジメ」に変えたものだ。 ここで重要なのは〈帝国〉=〈あべりょう〉が介入 すなわち、実名晒しを してよい権利を持っていることではなく、イジメ=悪という「合意」がとられていることだ。 〈帝国〉ならぬ〈あべりょう〉は、権利ではなく、「合意」に基づいて介入を行おうとする。 もちろん、この「合意の領域」はすでにさまざまな報道や行政や教員らの努力で、日本社会全体を覆いつくしている。 とハートはなどのを〈帝国〉の先鋒と位置付けるが、これらの報道組織や教員組織もいまやあべりょうの先鋒となってしまった。 あべりょうは合意に基づいて介入するだけでよい。 次は、『〈帝国〉』を参照にしてより大きな視点からあべりょうを見ていこう。 yoshikikomiya.
次の似たような名前だと長野県に上諏訪中学校という学校はありましたし、日立市に"日立市立諏訪小学校"という学校もあり、公式HPではいじめゼロ集会をやっていたことも掲載されているのでなにかと勘違いされますが、 日立市立上諏訪小学校という学校は 存在しませんね。 また 豊田市立羽生小学校という学校も存在しません。 合併前の下山村には 下山村立羽生小学校があったみたいですが、昭和15年に閉校され、現在はは石碑のみが残っている模様(リンク先に画像あり) 村上大翔、井上悠人、浅見和真、森田龍之介っていうイジメの加害者と被害者の個人名が歌詞中に出てきますがありがちな名前なので、同姓同名の人はいるでしょうけどフィクションの域でしょう。 まあ、実在する人物の名前や学校名を流したら名誉棄損で訴えられちゃいますし、そもそもYouTubeが配信させてくれないですからね・・・ 架空とはいえ、モチーフにしている学校名や人名のチョイスには何か意図があったのでしょうか? ただ、日立市や豊田市の学校に、同名で同年代の生徒がいなければいいのですが・・・紛らわしいからね。 本当にオリンピックの日にいじめっ子公開処刑するのか・・・? 205か国の参加国の数だけ本当にイジメている人を晒すかは謎。 Youtubeでやろうものならプロモ許可は確実に止められるし、そもそもどこで公表するかも不明。 実行したら逮捕待ったなしなので、この宣言自体単なる歌詞であって表明ではないだろうけど・・・ そういう歌詞なんだなーと割り切ってあまり本気にしない方がいいかも。 (とはいえ、あべりょうさんの所には既に全国のイジメられっこからメール来てるだろうし。 彼らからすれば、ウソでもこんな歌流してくれる人救世主だからなぁ。 あと内心ですよ。 私も一人で10人くらい晒してほしいくらい嫌な思い出あるけどね。 まぁ少年時代の話なんで今更どうこうするつもりはない) あからさまな肯定はできないが最後の 教訓だけは広まって欲しい 最後にこの曲のラストで紹介している24時間子供SOSダイヤル こちらは本当に実在します! こちらはもっと活用してくれ。 私なんか電話するのも怖くてできなかったんですけどね。 警察にも「ヤング・テレホン・コーナー」があるので色々活用して、泣き寝入りするのはダメですよ。 hebyahebya.
次の過激広告をYoutube上にアップしたあべりょうをディスってみる この記事は3分程度でサラッと読めます。 以下物議を醸し出しているあべりょうの動画 正義のYouTube広告 この記事は、持論を述べるものである。 また私は弁護士では無いため、いずれの知識も個人の見解によるものとする。 歌詞は著作権の絡みがあると思われるため、記事中への記載は控えさせていただく。 歌詞が気になる方は動画を拝見していただきたい。 あべりょうとは? あべ りょうは、日本の男性シンガーソングライター。 本名非公開。 正体不明のアーティストとしてマスメディアに取り上げられている。 政治や世界情勢などについてリアルな歌詞を特徴とする楽曲を多数発表している。 共産主義国家である北朝鮮によるミサイルが、頻繁に日本海域に撃たれていた頃に 「核攻撃サバイバー」で一度バズっているようだ。 北朝鮮を皮肉?北朝鮮に対する対応への皮肉? 核攻撃サバイバー こちらも一度目を通してみると良いだろう。 「核攻撃サバイバー」は現時点ですでに3000万の再生数を誇っている。 これから展開する議論とは別に、 クリエイターとして焦点を当てた場合には優秀であると言えよう。 それでは下記より、私からの指摘と若干の揶揄を述べたい。 現代っ子風に言うと、ディスる。 とでも言っておこう。 結論から言うと合理的でない いろんな意見が出ると思うが、問題に関心を持たせたいお気持ちや、言いたい事が言えないような型にとらわれたく無いというお気持ちは理解できますし、否定できません。 しかしながら、結論から申し上げますと、 この拡散による問題強行解決策は合理的とは思えません。 (私の知る限り、刑事罰は問われないようです。 詳しくは弁護士にご相談ください)個々の問題は当事者間で解決するべきであって、赤の他人が個人間に介入するべきではないように思います。 皮肉とかエンタメとか表現の自由、では済まされないように感じた次第です。 代替案 代替案としては、もし動画投稿者様が本当に世の中を変えたいとのことであれば、匿名性を担保しつつ署名活動をなされればよいのでは無いでしょうか。 もちろん被害者の了承を得るところからです。 そこまでなさるおつもりが無いのでならば、今のところ自分の動画をバズらせるための「材料」に使っていると感じざるを得ません。 厳しいようですが、それが筋では無いかと思います。 私がもし、センシティブな問題に立ち向かうならばそうすると思います。 勇気がいりますが。 この場合でも、証拠が十分であれば民事的責任を負う可能性も考えられます。 もちろん莫大な損害賠償という形で。 正義感があったとしてもです。 拡散なさるのであれば、そう言った視点と覚悟をお持ちください。 人は正義のつもりでいても、そのつもりがなくても、いつでも加害者になる可能性があると私は思いますよ。 この記事を執筆している私とて、例外ではありません。 いわゆる大きな釣り針(私のように動画に真面目に反応する人を引っ掛ける行為)だとしても もし歌詞の中で架空の出身地や架空の名前を用いていらっしゃるのであれば、私を含む人々の混乱を招かぬよう、 その旨記載する必要があるかと思います。 Youtubeで時々流れるイジメや貧困を謳った広告に対する皮肉なのか、はたまた、本当に現代日本に対する皮肉なのか、それとも私のように反応する人に対する皮肉なのかは謎めいています。 しかし、Youtubeでは登録者数16万人を超えるなど、現実問題として、ニッチ層の心を掴んでいるとも言えますね。 このようなクリエイターが話題になるのも、やはり平成バブル崩壊後の不況が生み出したのでしょうか。 それとも変革への第一歩となるのでしょうか。 少々揶揄が過ぎましたので、この辺りにしたいと思います。 まとめ 言うまでもありませんが、私はイジメを肯定するつもりはございません。 しかしながら個人間の争いに口出しするつもりもありません。 なぜなら世の中には 裁判所と言う第三者のプロが用意されている事を考えれば、答えの選択に迷いは生じません。 これらは執筆者の主観に基づく内容となります。 これが正解、あれが正解、と言うより、みんなで考えていけるようになればいいな、と思った次第です。 と、さっきノラ猫が言っていました。 私は、彼のセンシティブな広告によって中断させられた動画を見る事にします。 私の記事をご覧いただいた皆様へ、今一度、広告や表現方法について考え直すきっかけになればと思った次第です。 コメントは自由に書き込んでくださって構いません。 ご意見をお持ちの方はお聞かせくださいませ。 もちろん、私自身が彼(あべりょう氏)をディスっていますので、私に対する揶揄やディスりコメントでも問題ありません。 誹謗中傷はなるべくお控えくださいますようよろしくお願いいたします。 あと、この記事が良い方向に動くと思われた方はSNSでの共有よろしくお願いいたします。 慶通ブログ -KYOHEI-.
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